豊臣秀頼 | 秀吉と淀殿の子、豊臣家二代目。6歳で父を失い、大坂の陣で母とともに散った

豊臣秀頼のイラスト(イメージ)

とよとみ ひでより

地域近畿(大坂)
所属勢力・属性豊臣氏(当主)
大名家豊臣氏
家紋五七桐
主武器―
衣装・甲冑束帯・直衣
武将タイプ天下人の跡継ぎ

豊臣秀頼(とよとみ ひでより)は、豊臣秀吉と側室の淀殿(茶々)の子で、豊臣家の二代目である。文禄2年(1593年)に大坂城で生まれ、慶長3年(1598年)、6歳で父を失った。関ヶ原の戦いのあとは摂津・河内・和泉の約65万石の大名となり、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、母とともに大坂城で自害した。

3行でわかる豊臣秀頼
  • 秀吉と淀殿の子。兄の鶴松が早く亡くなったため、秀吉のただ一人の跡継ぎとなった
  • 秀吉の死後、五大老・五奉行に支えられたが、関ヶ原の戦いのあと徳川家康が力を握った
  • 方広寺の鐘の銘をめぐる争いから大坂冬の陣・夏の陣となり、大坂城で自害した
目次

天下人の跡継ぎとして

秀頼が生まれたとき、秀吉はすでに57歳だった。秀吉はそれまで甥の豊臣秀次を跡継ぎとしていたが、秀頼の誕生のあと関係が悪くなり、文禄4年(1595年)に秀次は切腹に追いこまれた。

慶長3年(1598年)、秀吉は徳川家康・前田利家らの五大老と、石田三成らの五奉行に、幼い秀頼の後見を何度も頼んで亡くなった。

関ヶ原のあと

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、秀頼は戦場には出ていない。戦後、家康は諸大名の領地を配り直し、豊臣家は摂津・河内・和泉の約65万石の大名となった。それでも秀頼は大坂城にいて、各地の寺社の修理を進めるなど、なお特別な存在だった。慶長16年(1611年)には京都の二条城で家康と会見している。

大坂の陣と最期

慶長19年(1614年)、秀頼が再建した方広寺の鐘の銘に家康が難くせをつけたことから、両者は戦いになった(大坂冬の陣)。いったん和睦したものの、翌年の夏の陣で大坂城は落ち、秀頼は母の淀殿とともに自害した。23歳だった。妻の千姫は家康の孫で、落城の前に城から助け出されている(「秀吉の子どもは何人?」参照)。

豊臣秀頼をめぐる人物

  • 父:豊臣秀吉
  • 母:淀殿
  • 後見した大名:徳川家康/前田利家/石田三成
  • 大坂城に残った一族:織田信包/織田長益
  • 従兄:豊臣秀次

ゆかりの地

  • 大阪城(豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑)(大阪市中央区):秀頼が生まれ、最期を迎えた大坂城の跡
  • 方広寺(京都市東山区):鐘の銘が大坂の陣のきっかけとなった寺
  • 豊国神社(大阪市中央区):秀吉・秀頼・秀長をまつる神社
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次