しまづ とよひさ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 島津氏 |
| 大名家 | 島津氏(佐土原島津家) |
| 家紋 | 丸に十文字 |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 殿軍に散った若き猛将 |
島津豊久(しまづ とよひさ)は、島津四兄弟の末弟・島津家久の子で、日向の佐土原城主である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、伯父の島津義弘とともに西軍として戦った。敗色が濃くなるなか、島津勢は前方の敵中を突破して退く「島津の退き口」を決行する。豊久はこのとき、しんがり(最後尾)として追ってくる敵を食い止め、31歳で命を落とした。
3行でわかる島津豊久
- 元亀元年(1570年)生まれとされる。父は島津家久。天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで父とともに初陣を飾った
- 天正15年(1587年)に父が急死し、翌年、豊臣秀吉から日向佐土原の領地を継ぐことを認められた。朝鮮出兵でも戦った
- 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、伯父・義弘の退き口のしんがりを務めて戦死した。最期の地は烏頭坂とするのが通説
目次
父・家久の跡を継いで
豊久は、戦上手で知られた島津家久の子として生まれた。天正12年(1584年)、肥前の沖田畷の戦いで島津軍が龍造寺隆信を討った戦いに、父とともに加わっている(龍造寺氏については「龍造寺隆信」参照)。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐で島津家が降伏した直後、父の家久が急死した(「九州征伐をわかりやすく解説」参照)。翌年、豊久は秀吉から佐土原の領地を継ぐことを認められ、若くして城主となった。
朝鮮での戦い
天正20年(1592年)に始まる朝鮮出兵では、豊久も海を渡った。文禄の役では春川城を守り、晋州城の攻撃に加わった。慶長の役でも各地で戦っている。
関ヶ原の退き口
慶長5年(1600年)、豊久は伯父の義弘とともに西軍として関ヶ原に布陣した。戦いが東軍優勢に傾くと、島津勢は退路を断たれ、前方の敵中を突っ切って退くことを選ぶ。豊久が義弘に撤退を強く勧めたという話もあるが、これは後世の記録による伝承である(「島津の退き口」参照)。
撤退のさなか、豊久はしんがりとして井伊直政や松平忠吉の追撃を食い止め、戦死した。最期の地は大垣市上石津町の烏頭坂(うとうざか)とするのが通説だが、傷を負って上石津の山中で亡くなったとする説もある。義弘は豊久らの犠牲によって薩摩へ帰り着いた。戦後、豊久の家臣たちは薩摩の永吉に移り、その家系は永吉島津家として続いた。
島津豊久をめぐる人物
ゆかりの地
- 烏頭坂 島津豊久碑(岐阜県大垣市上石津町牧田):豊久が奮戦して討死したとされる地に立つ碑
- 島津塚(岐阜県大垣市上石津町上多良):豊久の墓と伝わる五輪塔
- 天昌寺跡(鹿児島県日置市吹上町永吉):豊久の家臣たちが建てた墓がある。市の史跡
- 佐土原城跡(宮崎県宮崎市佐土原町):豊久の居城
この人物をもっと知る本
- 【歴史小説】近衛龍春『島津豊久 忠義の闘将』(角川文庫):豊久の生涯を関ヶ原の最期まで描く長編小説
- 【新書】桐野作人『関ヶ原 島津退き口』(ワニブックスPLUS新書):退き口の経過を史料からたどる























