京極高次 | お初の夫で大津城主。関ヶ原の前日まで西軍1万5千を大津城に引きつけた近江の名門当主

京極高次のイラスト(イメージ)

きょうごく たかつぐ

地域近畿(近江・若狭)
所属勢力・属性京極氏(豊臣家臣→東軍)
大名家京極家
家紋平四つ目結
主武器―(采配)
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ籠城の名門大名

京極高次(きょうごく たかつぐ)は、近江の名門・京極家の当主で、大津城主となった大名である。永禄6年(1563年)に生まれ、慶長14年(1609年)に47歳で亡くなった。妻は浅井三姉妹の次女・お初(常高院)。関ヶ原の戦いの直前、大津城にこもって西軍の大軍を引きつけた。

3行でわかる京極高次
  • 室町時代に近江を治めた京極家の当主で、母は浅井長政の姉
  • 本能寺の変で明智方についたが、妹の竜子が秀吉の側室となり許された
  • 関ヶ原では東軍につき、大津城で西軍約1万5千を足止めした
目次

没落した名門の跡取り

京極家は室町時代に近江の北半分を治めた名門だったが、戦国時代には家臣だった浅井家に力を奪われていた。高次の母は浅井長政の姉(京極マリア)である。

高次は少年のころ織田信長に仕えた。しかし天正10年(1582年)の本能寺の変では明智光秀に味方して秀吉の長浜城を攻めたため、戦後は追われる身となった。

妹と妻に助けられた出世

高次が許されたのは、妹の竜子(松の丸殿)が秀吉の側室になったためと伝わる。さらに浅井長政の娘・お初を妻にむかえ、淀殿の妹婿として豊臣家との結びつきを強めた。

高次はその後、近江の大溝、八幡山と城を移り、文禄4年(1595年)に大津城主(6万石)となった。妹や妻の縁で出世したことから「蛍大名(尻の光で出世した大名)」と陰口をたたかれたという話もある。

大津城の戦い

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、高次ははじめ西軍に加わる構えを見せたが、途中で大津城に戻って東軍につくことを明らかにした。西軍は毛利元康や立花宗茂らの約1万5千の軍で大津城を攻めた。

高次は9月7日から城を守り続けたが、15日に降伏して城を明け渡した。この日はちょうど関ヶ原の本戦の日だった。結果として、立花宗茂ら西軍の精鋭は関ヶ原の決戦に参加できなかった。家康はこの働きを高く評価し、高次に若狭小浜8万5千石(のち9万2千石)を与えた。

晩年

小浜城主となった高次は、城と城下町の整備を進めたが、慶長14年(1609年)に47歳で亡くなった。妻のお初は、その後も姉の淀殿と徳川家の間を取り持ち、大坂の陣では和睦の使者となっている。

京極高次をめぐる人物

  • 妻:お初(常高院)
  • 妹:京極竜子(松の丸殿、秀吉の側室)
  • 母方の叔父:浅井長政
  • 子:京極忠高
  • 大津城を攻めた相手:毛利元康/立花宗茂

ゆかりの地

  • 大津城跡(滋賀県大津市):西軍を引きつけた城。石碑が残る
  • 小浜城跡(福井県小浜市):関ヶ原のあとに与えられた城
  • 清滝寺徳源院(滋賀県米原市):京極家代々の墓所
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