新野親矩 | 今川家臣、幼い井伊直政を守った井伊家の恩人

にいの ちかのり

地域遠江国城東郡新野(静岡県御前崎市)
所属勢力・属性今川氏家臣(井伊氏の目付家老)
大名家今川家
家紋―
主武器刀
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ目付・調整型

新野親矩は、通称を左馬助といい、今川氏に仕えた遠江国新野の領主である。今川氏から井伊家の目付役として送られたが、井伊家を守る立場に立ち、幼い虎松(のちの井伊直政)の命を救ったといわれる。地元では「井伊家の恩人」として今も慕われている。

目次

今川氏の一族・新野氏

新野氏は、駿河・遠江を治めた今川氏の支流とされる一族である。遠江国新野(静岡県御前崎市)を本拠とし、舟ヶ谷城を居城とした。親矩は新野の地頭として三千石を領したと伝わる。

新野氏は井伊氏と婚姻関係を結び、深くつながっていた。親矩の妹は井伊直盛の妻となり、井伊直虎を産んだ。つまり親矩は直虎の伯父にあたる。

井伊家の目付家老として

井伊氏は遠江の井伊谷を本拠とする国衆で、今川氏に従っていた。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで当主の井伊直盛が討死し、井伊家は苦しい立場に置かれていた。親矩は今川氏と井伊氏の間をとりもつ目付役の家老として、井伊谷に住んだ。目付とは、主家の命令が守られているかを見張る役目である。

永禄5年(1562)、井伊直親が徳川方に通じた疑いで今川氏に殺された。このとき今川氏からは、直親の子でまだ2歳の虎松を殺すよう命令が出たという。親矩はその命の助けを願い出て、井伊家の危機を救ったといわれる。

引馬城攻めでの討死

永禄7年(1564)、今川氏真の命で、親矩は今川氏に背いた飯尾連龍の引馬城(のちの浜松城の前身)を攻めた。飯尾勢の激しい抵抗にあい、天間橋のあたりで討死した。

親矩の死後も、その妻が幼い虎松をひそかに守り育てたと伝わる。虎松はのちに徳川家康に仕えて井伊直政と名乗り、徳川四天王の一人となった。井伊家はのちに彦根藩主となり、幕末まで続いた。親矩が守った小さな命が、のちの大大名家につながったのである。

新野家の再興と顕彰

井伊家はのちに、親矩の名跡をつがせて新野家を再興した。命の恩人への恩返しといえる。親矩は今川家の家臣でありながら、目付として見張るはずの井伊家に尽くした。そのため、義理と情けを重んじた武将として語り継がれている。

居城跡の舟ヶ谷城山には、親矩の墓と伝わる五輪塔が残る。近くの左馬武神社に親矩はまつられ、地元の新野左馬助公顕彰会が毎年4月に献茶祭を開いている。

ゆかりの地

  • 左馬武神社・舟ヶ谷城跡(静岡県御前崎市新野):親矩をまつる神社と居城跡。墓と伝わる五輪塔がある
  • 引馬城跡(静岡県浜松市中央区):親矩が攻めて討死した城

参考にした資料

新野親矩とは

新野親矩は、今川家の一族・新野氏の武将で、井伊家の目付家老を務めました。

井伊家の目付

親矩は、今川家から井伊家を見守る目付として遠江の井伊谷に置かれました。

井伊直虎との関わり

親矩は、井伊家の跡継ぎ・直政(虎松)の母の兄とされ、井伊家の幼い跡継ぎを守ったと伝えられます。

引馬城攻め

永禄7年(1564年)、親矩は今川家の命で引馬城を攻め、討死しました。

評価

親矩は、今川家の一族でありながら井伊家を守った人物です。その働きは、のちの井伊直政の活躍につながりました。

このイラストについて

このイラストは、屋敷の中で書状を胸にした親矩を描いています。

落ち着いた顔と赤い甲冑で、井伊家を見守った家老の誠実さを表しました。

明かりの差す室内は、親矩が仕えた井伊谷の館をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

今川家

足利将軍家の一門で、駿河の守護を務めた家。今川氏親は遠江を手に入れ、分国法「今川仮名目録」を定めた。

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主家

家臣団

今川氏真太原雪斎
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