とだ うじかね
| 地域 | 東海・近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 戸田氏 |
| 大名家 | 戸田氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 名君・実務 |
戸田一西の長男で、江戸時代前期の大名。近江膳所、摂津尼崎を経て、寛永12年(1635)に美濃大垣10万石へ移った。島原の乱では松平信綱とともに出陣した。大垣では新田開発や治水、俸禄制への移行を進め、藩体制の基礎を築いた。
膳所から尼崎へ
戸田氏鉄(とだ うじかね)は江戸時代前期の大名である。天正4年(1576)に生まれた。三河の出身で、戸田一西の長男。初名は重氏。
父の一西は徳川家康に仕え、近江膳所(滋賀県大津市)の藩主となった。膳所は琵琶湖の南端にあり、京の東の入口をおさえる地である。氏鉄はその跡を継いで膳所藩主となった。のち摂津尼崎(兵庫県尼崎市)へ移り、尼崎藩主を務めた。尼崎は大坂の西に位置し、海と陸の交通をおさえる要地である。氏鉄はここで尼崎城を築いたとされる。
大垣10万石と藩政
寛永12年(1635)、氏鉄は美濃大垣(岐阜県大垣市)へ移り、10万石を領した。大垣戸田家はこののち廃藩まで11代続く。
大垣は中山道と美濃路が通る交通の要地で、関ヶ原にも近い。10万石の大垣藩は、美濃国で最も大きな藩であった。
大垣藩の仕組みは、氏鉄・氏信・氏西の3代の間に整ったとされる。氏鉄の時代には、家臣に土地を与える地方知行制から、米で給与を払う俸禄制への移行が進んだ。農民が村を捨てて逃げる「走り百姓」を禁じ、1,300石余りの新田を開いた。夫役(労役の負担)を米で納める制度を定め、山林の保護や治水にも取り組んだ。大垣は揖斐川などの川に囲まれた低地にあり、水害への備えは藩政の大きな課題であった。
島原の乱への出陣
寛永14年(1637)に島原・天草一揆(島原の乱)が起こった。重い年貢とキリシタンへの弾圧に苦しんだ人々が起こした一揆である。氏鉄は、幕府の上使・松平信綱とともに九州へ出陣した。氏鉄はこのとき60歳を超えていた。一揆勢は原城に立てこもり、翌年、幕府軍が城を攻め落とした。
氏鉄は慶安4年(1651)に隠居し、子の氏信が跡を継いだ。承応4年(1655)2月14日、80歳で没した。大垣城には氏鉄の騎馬像が立っている。
ゆかりの地
- 大垣城(岐阜県大垣市):大垣戸田家の居城。戸田氏鉄の騎馬像がある
- 尼崎城跡(兵庫県尼崎市):氏鉄が尼崎藩主の時に築いたとされる城






















