桑山重晴 | 秀長の重臣として和歌山城を預かった老練の武将。賤ヶ岳で砦を守り、利休に茶を学んだ

桑山重晴

くわやま しげはる

地域近畿
所属勢力・属性豊臣氏(秀長家臣)
大名家桑山氏
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ紀州を預かった老練の城代

桑山重晴(くわやま しげはる)は、豊臣秀長の重臣として紀伊の和歌山城を預かった武将である。尾張に生まれ、秀吉・秀長兄弟の天下取りを長く支えた。賤ヶ岳の戦いで砦を守り抜き、秀長が大和・紀伊・和泉の百万石の大名となると、紀州支配の要を任された。千利休に茶を学んだ茶人でもあり、その家は大和の新庄藩主として江戸時代に続いていく。

目次

尾張の出身 ― 丹羽長秀の与力から秀長の家臣へ

重晴は大永4年(1524年)、尾張国に生まれた(大永7年とする説もある)。初名は重勝、通称は彦次郎、のちに修理亮を名乗る。はじめは丹羽長秀の与力だったとされ、天正3年(1575年)には羽柴秀吉の奉行衆として名が見える。天正10年(1582年)ごろには1万石を与えられて秀長の配下に入った。秀長より十数歳年長の、経験豊かな武将だった。

賤ヶ岳の戦い ― 砦を取り戻し、勝利への時を稼ぐ

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、重晴は賤ヶ岳の砦を守った。4月20日、佐久間盛政の猛攻を受けると、重晴は一度は不利とみて退き始める。しかしその途中で丹羽長秀の援軍と合流し、引き返して砦を取り戻した。この粘りが、美濃から駆け戻る秀吉の到着までの時間を稼ぎ、勝利につながったとされる。戦後、重晴は加増されて但馬の竹田城を任された。

和歌山城代 ― 秀長の紀州支配を預かる

天正13年(1585年)、秀吉の紀州攻めののち、秀長は紀伊・大和・和泉を与えられる。秀吉の命で紀伊の虎伏山に城が築かれ始め、これがのちの和歌山城となった。翌天正14年(1586年)には「秀長の城代桑山重晴在城」と記録され、秀長が大和郡山に本拠を移したあと、重晴は紀伊支配の拠点を預かった。石高は加増を重ねて3万石とも4万石ともいわれる。

秀長にとって、郡山の本拠と離れた紀伊を任せられる重臣は欠かせない存在だった。紀州攻めの激戦を経た土地を落ち着かせる役目を、老練の重晴が担ったのである。

秀長・秀保の死後 ― 豊臣の直臣として

天正19年(1591年)に秀長が亡くなり、文禄4年(1595年)に跡を継いだ豊臣秀保も急死して大和豊臣家が断絶すると、重晴は秀吉の直臣となった。和泉谷川で加増され、この頃に剃髪して治部卿法印と称する。慶長元年(1596年)には孫の一晴に家督を譲って隠居し、秀吉の話し相手を務める御伽衆となった。

関ヶ原 ― 東軍につき、家を残す

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、桑山家は東軍についた。重晴は和歌山城を守り、孫の一晴は西軍方の新宮城を攻めて降伏させている。戦後、和歌山には浅野幸長が入り、桑山家は所領を分けて存続した。

  • 大和新庄藩:孫の一晴が慶長6年(1601年)に大和の布施・新庄へ移り初代藩主となる。のち天和2年(1682年)、四代・一尹のときに将軍家綱の法会での不始末を咎められて改易された
  • 大和御所藩:次男の元晴が興し、大坂の陣でも徳川方で戦った。寛永6年(1629年)、跡継ぎがなく断絶

重晴は慶長11年(1606年)、83歳の長寿を全うした。墓は京都・大徳寺と和歌山市の珊瑚寺にある。

茶人・桑山重晴 ― 利休から石州流へ

重晴は千利休に茶を学んだ茶人としても知られる。さらに三男の桑山貞晴(宗仙)は、利休の子・千道安に茶を学び、それを片桐石州に伝えた。武家の茶道として広まる石州流は、桑山家を通じて利休の茶につながっている。秀長の家臣団には、武勇だけでなく文化の担い手もいたのである。

「豊臣兄弟!」と桑山重晴

大河ドラマ「豊臣兄弟!」第37回「秀長の国」では、大和一国を与えられた秀長のもとに「新たな家臣も加わり」と紹介されている。紀伊を預かった重晴は、秀長の大和・紀伊支配を語るうえで欠かせない家臣の一人である。

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