おの しげゆき
| 地域 | 九州(筑前・筑後) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大友氏→立花氏 |
| 大名家 | 立花家(柳河藩) |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 猛将・家老 |
小野鎮幸は、戸次道雪と立花宗茂の二代に仕えた立花家の重臣である。由布惟信とともに「立花双璧」とたたえられた。関ヶ原の戦いで主家が領地を失ったあとも、残された家臣たちを支えたことで知られる。
大友家の戸次道雪に仕える
小野鎮幸は天文15年(1546)に生まれたとされる。通称は和泉で、小野和泉の名でも知られる。小野家は藤原道長を遠い先祖と称する家で、鎮幸はその18代当主にあたるという。
鎮幸が仕えたのは、豊後の大友家の重臣、戸次道雪である。道雪は大友家の命で筑前の立花城を守っていた。天正9年(1581)、道雪は大友家の部将高橋紹運の子を、娘誾千代の婿に迎えた。これがのちの立花宗茂である。鎮幸は道雪のもとで戦い、そのまま宗茂を支える家老となった。
立花宗茂を支えた家老
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定のあと、宗茂は筑後の三つの郡を与えられた。宗茂は柳川を城地と定め、大友家から独立した大名となった。鎮幸は宗茂の家老として、その政治と戦いを支えた。
鎮幸は数多くの戦に出た。生涯で67か所の傷を受け、68枚の感状(手柄をほめる文書)を得たと伝わる。由布惟信とともに「立花双璧」とたたえられ、「日本槍柱七本」の一人にも数えられたという。
関ヶ原のあと、主君の帰りを待つ
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、宗茂は西軍に味方した。そのため立花家は改易となり、柳川の領地を失った。宗茂は浪人となり、多くの家臣は肥後の加藤清正のもとに預けられた。
鎮幸も加藤家のもとで禄を得て、残された立花家の家臣たちを支えたという。主君の宗茂への仕送りも続けたと伝わる。鎮幸は慶長14年(1609)に亡くなった。宗茂はその後、徳川秀忠に許されて奥州棚倉の小大名となったが、鎮幸がその柳川復帰を見ることはなかった。
柳河藩の家老となった小野家
元和6年(1620)ごろ、宗茂は再び柳川の領主となった。一度改易された大名が同じ土地に戻るのは、たいへん珍しいことである。宗茂は加藤家に預けていた旧家臣を呼び戻し、鎮幸の子孫も柳川へ戻ったという。
小野家はその後、柳河藩の家老を務める家として続いた。家老の小野隆幸は福岡県大牟田市の慧日寺を支え、小野家はこの寺の有力な檀家となった。慧日寺には小野家の代々の当主が葬られている。
ゆかりの地
- 慧日寺(福岡県大牟田市岩本):柳河藩家老小野家の代々の墓所がある黄檗宗の寺
参考にした資料
小野鎮幸とは
小野鎮幸は、立花道雪・宗茂に仕えた重臣で、立花家の家老を務めました。
立花四天王
鎮幸は、由布惟信・十時連貞・安東家忠などとともに、立花家を支えた重臣として名が知られます。
朝鮮での戦い
鎮幸は、文禄・慶長の役で宗茂とともに朝鮮に渡り、碧蹄館の戦いなどで戦ったとされます。
主君の浪人時代
関ヶ原ののち宗茂が領地を失うと、鎮幸は加藤清正のもとに身を寄せ、主君の復帰を待ったと伝えられます。
評価
鎮幸は、立花家の家老として戦場と政治の両面で宗茂を支え、主君の苦しい時代にも忠義を守った人物です。
このイラストについて
このイラストは、山城と陣を背に、采配を掲げる鎮幸を描いています。
采配を高く上げる姿で、立花家の軍を率いた家老の勢いを表しました。
霧の立つ山々と城は、立花家が治めた筑後の景色をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
大友家の重臣・戸次鑑連(立花道雪)が筑前の立花山城を任され、立花の名跡を継いだことに始まる。道雪には男子がいなかったため、娘の誾千代に城督の地位を譲り、同じく大友家の重臣である高橋紹運の子・統虎(のちの宗茂)を婿養子に迎えた。
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