はらだ のぶたね
| 地域 | 筑前国(福岡県糸島市) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 筑前の国衆・龍造寺方から島津方へ |
| 大名家 | 原田氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 大勢力の間で家を守ろうとした国衆 |
原田信種は、筑前国怡土郡(福岡県糸島市)の高祖城を本拠とした原田氏の当主である。実父は肥前の草野鎮永で、祖父の原田了栄の跡を継いで原田家を率いた。豊臣秀吉の九州平定で所領を失い、のちに加藤清正のもとで朝鮮に渡った。
原田氏と高祖城
原田氏は大蔵氏を本姓とする北九州の古い家である。11世紀の刀伊の入寇で活躍した大宰大監の大蔵種材が、記録に見える最初の人物とされる。12世紀には種直が大宰権少弐に任じられ、北九州でも指折りの役人となった。家の祖を藤原純友の乱を討った大蔵春実とする説もあるが、確かな証拠はない。
高祖城は建長元年(1249)に原田種継が築いたと伝わる山城である。奈良時代の怡土城の跡を利用して高祖山に築かれ、以後は原田氏代々の居城となった。戦国時代の原田氏は大内氏や毛利氏と結び、了栄の代に近隣へ勢力を広げた。
草野家の血を引いた当主
信種の実父は肥前松浦の草野鎮永である。原田家では先代の原田親種が大友宗麟によって自害に追い込まれ、その子の秀種も戦死していた。そこで祖父の了栄(隆種)が、孫の信種に家督を継がせたとされる。
信種は大友氏を憎み、肥前の龍造寺隆信に近づいた。隆信から一字を受けて信種と名乗り、龍造寺氏の娘を妻に迎えたという。天正12年(1584)には攻め込んできた波多親の軍を退けた。その後は島津方につき、天正14年(1586)の岩屋城の戦いにも加わったとされる。
九州平定と原田家の没落
豊臣秀吉が九州平定に乗り出すと、高祖城は小早川隆景らの大軍に囲まれた。信種は降伏して城を明け渡し、城は壊された。秀吉に申し出た領地の広さが実際より少なかったことがとがめられ、所領の大部分を取り上げられたとも伝わる。こうして鎌倉時代から続いた高祖城の歴史は終わり、信種は浪人の身となった。
その後信種は肥後に移り、加藤清正の与力となった。文禄・慶長の役では朝鮮に渡っている。慶長3年(1598)に朝鮮で戦死、または病死したとする説がある。朝鮮側についた武将「沙也可」になったという説まである。一方で、朝鮮出兵のあとに出された官途状が残ることから、実際には帰国したとする見方もあり、最期ははっきりしない。
子どもと地元に残る話
子には原田嘉種と原田種房がいる。糸島には、落城のとき信種が一人娘の輝姫を野北(糸島市)へ逃がしたという話が伝わる。どんなに落ちぶれても天寿を全うしてほしいという親心からだったという。高祖山のふもとには原田氏とゆかりの深い高祖神社があり、今も一族の記憶をとどめている。
ゆかりの地
- 高祖城跡(福岡県糸島市高祖):原田氏代々の居城。土塁や石積み、畝状竪堀群が残る
- 高祖神社(福岡県糸島市高祖):高祖山のふもとの神社。原田氏の当主が京の能神楽を伝えたとされる
参考にした資料
原田信種とは
原田信種は、筑前の原田氏の当主です。
草野家の血
信種は、筑後の草野家の出身で、原田家を継いだとされます。
九州平定
秀吉の九州平定の際、原田家は島津方についていたため、領地を失いました。
評価
信種は、筑前の名門・原田家の最後の当主として、九州平定の時代に家を失った人物です。
このイラストについて
このイラストは、陣を背に、槍を手に座る信種を描いています。
どっしりと構えた姿で、筑前の名門を率いた当主の重みを表しました。
山の上の城は、原田氏の本拠・高祖山城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
筑前の古処山城を本拠とした家。秋月種実は父を大友氏に攻められて失った後、毛利氏の支援を受けて旧領を取り戻し、のちに島津氏と結んで筑前・筑後・豊前に大きな勢力を築いた。
秋月家の歴史と武将一覧を見る →


























