小栗忠政 | 「又一」の名を賜った一番槍の三河武士。家康の小姓から身を起こし、幕臣・小栗忠順の祖となった旗本

小栗忠政

おぐり ただまさ

地域東海
所属勢力・属性徳川家臣・三河武士(旗本)
大名家徳川氏
主武器槍
衣装・甲冑実戦向きの具足
武将タイプ一番槍の猛将
目次

小栗忠政とは

小栗忠政(おぐり ただまさ)とは、徳川家康に仕えた三河武士で、合戦のたびに一番槍を挙げたことから「又一(またいち)」の名を賜ったと伝わる槍の名手である。天文二十四年(1555)に小栗吉忠の子として生まれ、通称は庄三郎、のちに又市、又一と名乗った。十三歳で家康の小姓として出仕し、以後、家康の主な戦いのほとんどに加わって戦功を重ねていく。

元亀元年(1570)の姉川の戦いでは、家康のそばで警護にあたり、襲いかかる敵兵を相手に奮戦した。この働きを賞されて家康から名槍を授かったといい、若き忠政の名はここから広く知られるようになる。その後も駿河侵攻、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いと転戦し、「小栗党」と呼ばれた一族郎党を率いて槍働きを続けた。

姉川の戦いで家康のそばを守る小栗忠政
姉川の戦いで家康のそばを守る若き小栗忠政(イメージ)

こうした戦功により、忠政は最終的に上野・武蔵・下総あわせて二千五百五十石を知行する旗本となった。一万石に届かず大名にはならなかったが、三河以来の古参の家臣の多くも同じくらいの規模の旗本で終わっており、忠政の家もその一つであった。武蔵国足立郡大成(現在のさいたま市大宮区大成町)を拠点とし、この地の普門院を復興して小栗家の菩提寺とした。

親族・主従・ライバル ― 人物相関

父は小栗吉忠で、弟に吉次がいる。妻には、はじめ家康の重臣・天野康景の娘を迎え、のちに松平信一の娘を後妻とした。子には政信・信由・信友らがおり、忠政の家はこの子らを通じて江戸時代を通じた旗本の家として続いていく。

主君は終生、徳川家康であった。小姓として仕えて以来、家康の身辺を守る立場から戦場に出た忠政にとって、家康は主君であると同時に、その才を見いだして名を与えてくれた人物でもある。小牧・長久手の戦いでは、徳川四天王の一人・酒井忠次の手に属して戦った。

忠政の直系の子孫からは、幕末に幕府の財政や外交を担った小栗忠順(上野介)が出ている。一番槍の武勇で身を立てた戦国の旗本の家から、およそ二百五十年の時を経て、幕府を最後まで支えようとした幕臣が生まれたのである。

逸話・エピソード

「又一」の名は、忠政の槍働きにちなむ。もとの通称は「又市」であったが、合戦のたびに一番槍をつける忠政に、家康が「又も一番槍か」という意味を込めて「又一」の字を与えたと伝わる。指物が血に染まるほどの奮戦ぶりであったともいわれ、槍一本で主君の信頼を勝ち取った三河武士らしい逸話である。

敵陣に一番槍をつける小栗忠政
合戦のたびに一番槍をつけたと伝わる小栗忠政(イメージ)

もっとも、その勇猛さは長所ばかりではなかった。猪突猛進な性格から、たびたび独断で突出したり軍律に背いたりして、家康の怒りを買うこともあったという。命じられる前に敵へ突き進んでしまう忠政の気性は、一番槍の名誉と表裏一体であった。

晩年、忠政は大坂の陣にも出陣し、夏の陣で鉄砲傷を負った。その傷がもとで翌元和二年(1616)九月、江戸で没したと伝わる。享年六十二。十三歳で家康の小姓となってからおよそ半世紀、主君家康とほぼ同じ年に世を去った忠政は、家康の天下取りを最初から最後まで槍で支え続けた武将であった。

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