宮部長房 | 鳥取城主宮部家の二代、関ヶ原で改易

宮部長房

みやべ ながふさ

地域中国
所属勢力・属性豊臣家
大名家宮部家
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ悲壮・改易

宮部長房(長熙とも)は豊臣秀吉の側近・宮部継潤の子で、因幡鳥取5万石を継いだ。関ヶ原の際、徳川家康の会津征伐に従軍していたが、西軍への加担を疑われて拘束され、改易された。のち南部家に預けられ、盛岡で没した。

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宮部継潤の跡を継ぐ

宮部長房は、秀吉の側近として知られる宮部継潤の子である。名は長熙とも伝わる。天正14年(1586)に従五位下兵部少輔に任じられ、豊臣の姓を与えられた。

継潤はもと近江の浅井長政の家臣で、のちに秀吉に従った。秀吉の甥・秀次を一時養子としたことでも知られる。

父の継潤は天正9年(1581)の鳥取城攻めののち、鳥取城に入って因幡を治めた。長房はその跡を継ぎ、鳥取5万石の城主となった。

関ヶ原での去就

慶長5年(1600)、長房は家康の会津征伐に500人を率いて従軍した。その途中で石田三成の挙兵を知り、西へ引き返した。

この時、妻の兄弟にあたる池田秀氏から西軍に加わるよう誘われたとされる。長房は熱田から桑名へ渡ろうとしたが、船が来ず、自陣に戻ったという。その後、徳川方の目付に拘束され、岡崎城に入れられた。西軍に属したとされることもあるが、戦場で西軍として戦ったわけではない。

改易と盛岡での晩年

戦後、鳥取の所領は没収された。死罪を免れたのは、田中吉政の助命嘆願によるとされる。

翌年12月、長房は陸奥の南部利直に預けられ、生活のための米と扶持を与えられた。のちに剃髪して長令と号し、寛永11年(1634)に盛岡で没した。子孫は南部家に仕え、のちに多賀と姓を改めたという。

長房が去ったのち、鳥取には池田長吉が入った。

ゆかりの地

  • 鳥取城跡(鳥取県鳥取市):父継潤と長房の居城。国史跡

参考にした資料

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