いしん すうでん
| 地域 | 近畿(京・南禅寺)、東海(駿府)、関東(江戸) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川氏(政治顧問) |
| 大名家 | ―(臨済宗の僧) |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | 法衣 |
| 武将タイプ | 黒衣の宰相 |
以心崇伝(いしん すうでん)は、臨済宗の僧で、徳川家康の政治顧問をつとめた人物である。金地院崇伝とも呼ばれる。永禄12年(1569年)に生まれ、寛永10年(1633年)に65歳で亡くなった。武家諸法度や禁中並公家諸法度などの法をつくり、江戸幕府の土台づくりにかかわったことから、「黒衣の宰相」と呼ばれた。
3行でわかる以心崇伝
- 京都の南禅寺の住職となった学問のある僧
- 家康に招かれ、外交文書や寺社の政治を担当した
- 武家諸法度・禁中並公家諸法度などの起草にかかわり、「黒衣の宰相」と呼ばれた
目次
南禅寺の僧
崇伝は、室町幕府の家臣の家に生まれたが、幼いころに出家して南禅寺で学んだ。学問にすぐれ、慶長10年(1605年)には37歳で南禅寺の住職となった。
家康の政治顧問
慶長13年(1608年)ごろ、崇伝は家康に招かれて駿府に移り、外国との外交文書の作成や、寺社の取り締まりなどを担当した。
慶長19年(1614年)、方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文字が家康の名を切り離すものだと問題にされた事件(方広寺鐘銘事件)では、崇伝も幕府側の意見をまとめる立場にあった。この事件が大坂の陣のきっかけとなった。
幕府の法をつくる
豊臣家が滅んだ慶長20年(1615年)、崇伝は大名が守るべき「武家諸法度」や、天皇・公家を規制する「禁中並公家諸法度」の起草にかかわった。寺院を取りしまる法もつくり、幕府による支配の仕組みを整えた。
家康の死後も秀忠・家光に仕え、寛永10年(1633年)に江戸で亡くなった。家康の死後、家康を神としてまつる方法をめぐって天海と争ったことでも知られる。
以心崇伝をめぐる人物
- 仕えた主君:徳川家康/徳川秀忠/徳川家光
- 同じく家康の顧問だった僧:天海
- ともに方広寺鐘銘を論じた学者:林羅山
ゆかりの地
- 南禅寺 金地院(京都市左京区):崇伝が住んだ塔頭。崇伝が建てた東照宮や庭園がある
- 方広寺(京都市東山区):「国家安康」の鐘がある寺


徳川家康
天海
徳川秀忠
豊臣秀頼







































