吉川広家 | 吉川元春の三男。関ヶ原の戦いにおいて毛利家存続のため東軍(家康)と内通し、南宮山の毛利軍を動かさず戦観

吉川広家

きっかわ ひろいえ

地域中国
所属勢力・属性吉川氏・毛利系
大名家吉川氏
家紋丸に三つ引
主武器太刀・行政書状
衣装・甲冑黒漆具足
武将タイプ苦汁・家存続
目次

吉川広家とは

吉川広家は永禄4年(1561年)に生まれ、寛永2年(1625年)に世を去った戦国から江戸初期にかけての武将で、安芸の名門吉川家を率いた人物として知られている。毛利両川と呼ばれた吉川家の当主として、父や兄から受け継いだ勇名を背負いながら、関ヶ原の戦いという時代の分かれ目で毛利宗家の運命を左右する重い決断を下すことになった。彼の名が後世に強く刻まれたのは、西軍総大将に担がれた毛利宗家を破滅から救うため、ひそかに徳川方へ通じて南宮山の毛利勢を戦わせなかったという、賛否の分かれる働きゆえである。

宗家存続の立役者と見るか、味方を欺いた裏切り者と見るか、その評価は今なお定まらず、戦国の終幕を語るうえで欠かせない複雑な立場の武将として語り継がれている。

毛利両川を支えた吉川家の出自

吉川家はもともと安芸国の山間部に根を張った国人領主であったが、毛利元就の次男が養子として送り込まれたことで、毛利一族を支える有力な分家へと生まれ変わっていった。毛利家では元就の血を引く吉川家と小早川家の両家が本家を左右から支える体制がとられ、これが後世に毛利両川と呼ばれる強固な結束の仕組みとして名を残すことになった。

吉川家は主に山陰方面の軍事を担い、精強な武を持って毛利の版図拡大に大きく貢献し、外交や水軍を得意とした小早川家と役割を分け合いながら本家を支え続けた。広家はこの武の家に生まれ育ち、幼い頃から一族の誇りと重責を身近に感じながら成長していったと伝わり、その生い立ちが彼の生涯の行動を深く方向づけていった。

父・吉川元春という巨大な存在

広家の父である吉川元春は、毛利元就の次男として生まれ、生涯にわたって数多くの合戦で先陣を切った猛将として山陰一帯にその名を轟かせた人物であった。元春は主家への忠義に厚く、また学問を好んで自ら太平記を書き写したと伝わるなど、勇猛さと教養を兼ね備えた武将として当時から高く評価されていた。

そのような偉大な父のもとで、広家は三男という立場に生まれたため、当初は家督を継ぐ立場になく、比較的自由な少年期を過ごしたとも考えられている。しかし父の生き様や毛利両川を担う吉川家の気概は、末子であった広家の胸にも確かに刻まれ、後年の彼の判断や振る舞いに色濃く影を落としていった。

三男から当主へ、思わぬ家督相続

広家には元長という優れた長兄がおり、本来であれば吉川家の家督はこの兄が継ぎ、広家自身は一門の武将として兄を支える立場にとどまるはずであった。ところが天正14年(1586年)、九州平定の陣中にあった父・元春が病を得て世を去り、吉川家は大黒柱を突然に失うという大きな痛手をこうむることになった。さらに翌天正15年(1587年)には家督を継いだばかりの長兄・元長までもが従軍中に急死してしまい、吉川家は短期間のうちに当主を二度も失う異例の事態に陥った。

こうして三男でありながら思いがけず家督を継ぐことになった広家は、若くして名門吉川家の重い看板を背負い、激動の時代へと押し出されていったのである。

毛利輝元から賜った「広」の一字

家督を継いだ広家は、それまで経言と名乗っていたが、主家である毛利宗家の当主・毛利輝元から「広」の一字を与えられ、新たに広家と名を改めたと伝わる。主君から名前の一字を賜ることは当時にあって大変な栄誉であり、それは同時に吉川家が毛利本家と固く結ばれていることを内外に示す政治的な意味も帯びていた。

この改名は、若い当主となった広家に対する宗家の期待と信頼のあらわれであったと同時に、彼が背負うべき忠義の重さを象徴する出来事でもあった。以後、広家は毛利両川の一翼として本家を支える責務を負い、その名に込められた宗家との絆が、後の彼の最も苦しい決断へとつながっていくことになる。

月山富田城主として山陰を治める

天下統一を進める豊臣秀吉の体制下で、広家は山陰の要衝である月山富田城に入るよう命じられ、出雲や伯耆、隠岐にまたがる広大な所領を治めることになった。この月山富田城はかつて尼子氏が本拠とした堅固な山城であり、そこを任されたことは、広家が毛利家中でも重きをなす有力な武将であったことを物語っている。

支配した所領はおよそ14万石にも及んだと伝わり、若き当主は領国の統治と軍事の両面で実務の経験を積み、大名としての力量を着実に高めていった。山陰の地を治めた日々は、後に岩国で新たな領国を築く広家にとって、領主としての知恵と自負を養う貴重な下地となったと考えられている。

文禄・慶長の役への従軍

秀吉が大陸への出兵を強行した文禄・慶長の役に際して、広家も毛利勢の一員として海を渡り、朝鮮半島の各地を転戦して数々の激しい戦いに身を投じた。とりわけ碧蹄館の戦いなどでは奮戦して武功を挙げたと伝わり、その働きぶりから秀吉によって日本の槍柱七本の一人に数えられたとも言われている。慶長の役では、蔚山の城に籠って明と朝鮮の大軍に包囲された加藤清正を救援するため、広家は味方とともに敵の包囲を打ち破る奮戦を見せたと記録に残る。

こうした異国での過酷な戦いは、広家に武将としての自信と誇りを与えると同時に、大軍勢がぶつかり合う戦の恐ろしさと無益さをも深く心に刻ませたと考えられている。

秀吉の死と関ヶ原前夜の緊迫

慶長3年(1598年)に天下人・豊臣秀吉が世を去ると、幼い秀頼を残した豊臣政権は急速に不安定となり、諸大名の間で主導権をめぐる緊張が一気に高まっていった。五大老の筆頭であった徳川家康が着実に力を蓄えて存在感を増す一方、石田三成らはこれに強く反発し、天下は東西二つの勢力に分かれて対立を深めていった。

毛利家もまた五大老の一員として無縁ではいられず、当主の毛利輝元は否応なく渦中に巻き込まれ、家中では去就をめぐって重臣たちの意見が割れていった。広家は早くから徳川方の実力を冷静に見きわめ、毛利家が軽々に西軍へ深入りすることの危うさを察していたとされ、その現実的な判断が彼を苦しい立場へと導いていく。

西軍総大将に担がれた毛利宗家

慶長5年(1600年)、石田三成らが家康打倒の兵を挙げると、西軍は象徴となる名望ある大将を必要とし、毛利輝元を総大将として大坂城に迎え入れた。毛利家は中国地方に広大な版図を持つ大大名であり、その当主が総大将の座に就いたことは、西軍にとってこのうえない権威づけとなるものであった。

しかし広家から見れば、これは毛利家を勝算の乏しい戦いの矢面に立たせ、一族の命運を賭ける危険きわまりない選択にほかならないものであった。宗家が名目上の頂点に担ぎ上げられていく状況に、広家は強い危機感を募らせ、なんとかして毛利家を破滅から遠ざける道を探し始めたと伝わる。

家康への密かな内通

広家は毛利家の存続を第一に考え、東軍の勝利を見越して、徳川方の重臣である黒田長政を仲立ちとして、ひそかに家康との交渉を進めていったとされる。この交渉で広家が求めたのは、毛利家が積極的に戦わないことと引き換えに、戦の後も毛利の所領を安堵してもらうという密約を取り付けることであった。総大将となった輝元や、西軍の中枢にあった安国寺恵瓊らには知らされないまま、広家は福原広俊ら一部の重臣とともに徳川方との停戦の合意を固めていった。

主家の名誉よりも一族の存続を優先したこの内通は、広家にとって苦渋の選択であったが、彼は毛利の血を絶やさぬためにあえて危険な賭けに踏み切ったのである。

南宮山への布陣

慶長5年9月、天下分け目の決戦の場となった関ヶ原において、毛利勢は家康の本陣を背後からうかがう要地、南宮山に大軍をもって布陣することになった。この位置は、もし毛利勢が一斉に山を下って攻めかかれば、家康の本陣を後方から突き崩しかねない、東軍にとって極めて危険な場所であった。毛利勢の先陣には広家が陣取り、その後方に毛利秀元や安国寺恵瓊らが控えるという布陣がとられ、山上の大軍は戦局を左右しうる潜在的な力を秘めていた。

しかし家康と密約を交わしていた広家は、あえて最前線に陣を据えることで、後方の味方が前へ進もうとしても道をふさぐ位置を確保していたのである。

宰相殿の空弁当

決戦が始まると、後方に控えた毛利秀元は家康の本陣へ攻めかかろうと逸ったが、先陣の広家が一向に動かず道を空けないため、思うように出撃できなかった。西軍の石田方からは再三にわたって毛利勢の参戦を促す使者が送られてきたが、広家は霧の濃さなどを理由に挙げて、巧みに出撃を引き延ばし続けたと伝わる。出撃を求められた秀元もまた、いままさに兵たちに弁当を食べさせている最中であると称して時間を稼ぎ、ついに山を下ることのないまま戦いを見送った。

この故事から、実体のない口実で戦いを避けたさまを指して宰相殿の空弁当という言葉が生まれ、南宮山の毛利勢が動かなかった事情を今に伝えている。こうして戦力の一角を占めた毛利の大軍は一戦も交えぬまま終わり、広家の周到な立ち回りが、西軍の敗北と毛利家の温存を同時にもたらすことになった。

関ヶ原の決着と毛利家の危機

関ヶ原の本戦は小早川秀秋の裏切りなども重なってわずか一日で東軍の勝利に終わり、西軍は総崩れとなって、その総大将であった毛利家は一気に窮地に立たされた。大坂城に留まっていた輝元は、名目上とはいえ敵方の総大将であったため、家康からは厳しく責任を問われ、毛利家の存亡そのものが危ぶまれる事態となった。

広家が家康と結んだ密約は毛利領の安堵を約するものであったが、戦後の交渉の中で、当初の話とは異なる厳しい処分の可能性が浮かび上がってきた。毛利家がまるごと取り潰される改易の危機を前に、広家は自らの働きを盾に、必死の嘆願を重ねて宗家の存続を勝ち取ろうと奔走することになった。

自領を宗家へ譲る決断

戦後の処分において、家康は当初、内通の功を認めて周防と長門の二国を広家個人に与え、吉川家を大名として取り立てる意向を示したと伝わっている。しかし広家はこれを自らの利益とすることを潔しとせず、その二国をどうか毛利宗家に与え、毛利の家名を存続させてほしいと家康に繰り返し願い出た。自分に与えられるはずだった領地をそっくり主家に譲るというこの申し出は、一族の存続を何よりも重んじた広家の忠義と自己犠牲のあらわれであった。

広家の懸命の嘆願が実を結び、家康は改易を思いとどまって、周防と長門の二国を毛利宗家に安堵する決定を下し、毛利家は辛くも滅亡を免れたのである。

防長二国への大減封

かつて中国地方の八か国以上にまたがる百万石を超える大版図を誇った毛利家であったが、関ヶ原の後には周防と長門のわずか二国、およそ30万石ほどにまで所領を削られた。この大減封は毛利家にとって計り知れない打撃であり、多くの家臣が禄を失い、宗家は狭い領国の中で家臣団を養い直すという苦難を背負うことになった。

それでも家そのものが取り潰される改易だけは免れたことは、広家の働きなくしては望みえなかった結果であり、毛利家はここから長州藩として再出発を果たした。後に幕末に至って長州藩が倒幕の中心的な役割を担うことになる歴史を思えば、この時に毛利の家名が絶えなかったことの意味は、はかりしれないほど大きい。

岩国吉川家の成立

毛利宗家が防長二国へ移った後、広家自身は周防国の東端に位置する岩国の地におよそ3万石を与えられ、新たな領国の初代領主として腰を据えることになった。広家は岩国に新たな都市を築くのではなく、山あいに横山城を構え、錦川のほとりに城下町を整えるなど、荒れた土地を治める領国経営に力を注いでいった。

こうして興った岩国吉川家は、幕府からは大名に準じる扱いを受けながらも、長州藩からは家臣として位置づけられるという、ねじれた微妙な立場に置かれ続けた。この曖昧な地位は幕末に至るまで岩国吉川家を悩ませ続けたが、広家が築いた岩国の地は錦帯橋で名高い城下町として、後世まで栄えていくことになった。

輝元との間に残ったしこり

毛利家を存亡の危機から救った広家であったが、彼の内通が総大将であった輝元や重臣たちに事前に知らされていなかったことは、家中に深い遺恨を残すことになった。宗家の側から見れば、広家の独断による家康との密約が、結果として毛利家の大減封を招いた一因であるとも受け取られ、その責を彼に負わせる声も根強かった。

広家自身は毛利の存続のためにやむをえず行った忠義の行為だと考えていたが、両者の間には内通をめぐる認識の食い違いから、拭いがたいしこりが横たわり続けた。宗家を救った恩人でありながら、同時に宗家を衰えさせた張本人ともみなされるという矛盾した立場は、広家の生涯につきまとう重い影となっていった。

実直な人柄と武辺の気質

吉川広家は、父・元春から受け継いだ武辺の気質と、飾り気のない実直な人柄で知られた武将であった。戦場では勇猛でありながら、平時には家臣や領民に対して誠実に接したと伝えられている。朝鮮での戦いにおいて、包囲された加藤清正の救援に加わった働きは、広家の武人としての面目を伝えるものであり、味方の危急を見過ごせぬその気概がよくうかがえる。一方で広家は、いたずらに勇に走ることを戒め、常に一族全体の利害を冷静に見すえる思慮深さを併せ持っていた。

関ヶ原での苦渋の決断も、この現実を見る目があってこそのものであった。武の家に生まれながら、力押しではなく計算と忍耐によって家を守り抜いた広家の生き方は、戦乱の世が終わりへと向かう時代の変化を、その身をもって体現するものであったといえよう。

岩国城下の礎を築く

広家が岩国の地に築いた城下町は、山あいの横山に城を構え、その麓に武家屋敷を配し、錦川を天然の堀として活かした堅実な縄張りによって整えられていった。領国経営にあたって広家は、新田の開発や治水に力を注ぎ、限られた石高の土地を少しでも豊かにしようと、地道な内政の努力を積み重ねていったと伝わる。

彼が据えた岩国領の基礎は子孫へと受け継がれ、後の世に一族の吉川広嘉が名高い錦帯橋を架けるなど、城下町はさらに整備されて栄えていくことになった。戦さの采配から領国の経営へと、その力を静かに移していった広家の営みは、岩国の地に長く残る確かな遺産となって、今日まで受け継がれている。

岩国の開発に尽くした晩年

慶長19年(1614年)に広家は隠居して家督を嫡男の広正に譲ったが、その後も領国の政務から手を引くことなく、岩国の地の整備と発展に力を注ぎ続けた。隠居後の元和3年(1617年)には、188条にも及ぶ詳細な領内の統治のきまりを定めたと伝わり、岩国領の政治の基礎を丹念に築き上げていった。戦乱に明け暮れた前半生とは対照的に、晩年の広家は一領国の礎を据える地道な営みに心血を注ぎ、武将から治世の領主へとその姿を静かに変えていった。

寛永2年(1625年)、広家は波乱に満ちた65年の生涯を岩国の地で閉じ、彼が遺した領国は子孫によって受け継がれ、幕末まで存続していくことになった。

吉川広家という武将の評価

吉川広家は、味方を欺いて南宮山の毛利勢を動かさなかった裏切り者として語られる一方で、改易の淵から毛利宗家を救い出した恩人としても評価される、両面を持つ武将である。彼の内通は、勝ち目の薄い戦いに家を賭けることを避け、一族の存続を最優先した現実的な判断であり、戦国乱世を生き抜くための冷徹な知恵のあらわれでもあった。

その決断が毛利家を大きく衰えさせた反面、家名を絶やさなかったことが、はるか後の時代に長州藩が歴史を動かす下地を残したという皮肉な結果も生んでいる。父・元春譲りの武勇と、時勢を見きわめる冷静な洞察力を併せ持った吉川広家は、忠義と保身のはざまで苦悩した、戦国終幕を象徴する奥深い人物として今も評価が分かれている。

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