松浦隆信 | 南蛮貿易で平戸を栄えさせた戦国大名(道可)

松浦隆信のイラスト(イメージ)

まつら たかのぶ

地域九州(肥前平戸)
所属勢力・属性松浦党・平戸松浦氏
大名家松浦家
家紋梶の葉
主武器水軍・鉄砲
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ貿易大名

松浦隆信は、肥前平戸を本拠とした戦国大名である。ポルトガル船を平戸に迎えて貿易を行い、平戸を海外貿易の港として栄えさせた。出家して道可と号し、子の鎮信の代に松浦家は平戸藩の大名となった。

目次

松浦党から生まれた平戸松浦氏

松浦氏は、中世の肥前北部で活動した武士団「松浦党」の中から力をのばした家である。平戸を中心とする一族のまとまりを土台にして、在地の領主として成長した。

隆信は享禄2年(1529)、平戸城主・松浦興信の子として生まれた。天文10年(1541)、父の死により13歳で家督を継ぎ、肥前守を名乗った。

ポルトガル船と平戸の繁栄

天文19年(1550)、ポルトガル船が初めて平戸に入港した。貿易で国を豊かにしたい隆信は、船を歓迎し、キリスト教の布教も認めた。同じ年にはフランシスコ・ザビエルも平戸で布教の許しを得ている。こうして平戸は、ポルトガル船がたびたび訪れる港になった。翌年には平戸に教会も建てられ、平戸は日本有数の貿易の港として知られるようになった。

平戸には倭寇の頭目とされる中国の海商・王直も屋敷を構え、海外の船を平戸へ招いたと伝わる。一方で隆信は、のちに宣教師を領内から退去させるなど、キリシタンを迫害する立場に変わったとされる。貿易は重んじても、信仰の広まりには警戒していたと考えられる。

領地の拡大と出家

隆信は永禄年間に北松浦半島を従え、壱岐にも勢力を広げた。家臣に向けて11条からなる「御条目」を定めたことも知られる。

永禄11年(1568)、隆信は髪をそって道可と号し、家督を子の鎮信にゆずった。天正15年(1587)には、豊臣秀吉の九州平定に従っている。

平戸藩へと続く家

秀吉の九州平定ののち、鎮信は旧領を認められ、松浦家は近世大名となった。慶長5年(1600)には徳川氏からも領地を認められ、平戸藩が成立した。

隆信は慶長4年(1599)閏3月6日に亡くなった。松浦家は平戸藩主として幕末まで続き、明治4年(1871)の廃藩で平戸県となった。平戸の松浦史料博物館には、隆信にあてた文書を含む「松浦文書」が伝えられている。

ゆかりの地

  • 松浦史料博物館(長崎県平戸市鏡川町):松浦家伝来の史料を収め、隆信あての文書も伝わる
  • 王直屋敷跡・天門寺跡(長崎県平戸市鏡川町):隆信の時代に平戸で活動した海商王直の屋敷跡

参考にした資料

松浦隆信とは

松浦隆信は、肥前の平戸を治めた松浦家の当主で、松浦鎮信の父です。

ポルトガル船の来航

天文19年(1550年)、平戸にポルトガル船が来航しました。隆信はこれを受け入れ、南蛮貿易で平戸を栄えさせました。

キリスト教との関係

隆信は、貿易のためにキリスト教の布教を認めましたが、のちに対立するようにもなりました。

道可という号

隆信は、出家したのちに道可と号しました。

評価

隆信は、南蛮貿易によって平戸を国際的な港町にし、松浦家の力を大きく伸ばした当主です。

このイラストについて

このイラストは、南蛮船の浮かぶ港を背に立つ隆信を描いています。

落ち着いた顔と赤い羽織で、貿易で家を栄えさせた当主の姿を表しました。

夕日の港と大きな船は、ポルトガル船が来航した平戸の港をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

松浦家

肥前の平戸を本拠とした家で、海の武士団「松浦党」の流れをくむ。松浦隆信はポルトガル船を平戸に迎えて南蛮貿易で栄え、のちにオランダやイギリスの商館も平戸に置かれた。

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家臣団

波多親のイラスト(イメージ)
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