おおくぼ ただかず
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | 上り藤 |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 武骨具足 |
| 武将タイプ | 豪毅・古参 |
大久保一族の長老。徳川家康の祖父・清康の代から仕え、三河武士の粘り強さを体現した頑固者。
大久保家の長老
忠員は、三河の松平家(のちの徳川家)に仕えた大久保家の武将です。1510年に生まれました。
大久保一族
大久保家は、松平家に古くから仕えた譜代の家臣の一族で、多くの勇将を出しました。
三代に仕える
忠員は、家康の祖父の松平清康、父の広忠、そして家康の三代に仕えたとされます。
苦難の時代
清康の死後、松平家は今川家と織田家の間で苦しい時代を迎えました。忠員ら大久保一族は、その中で主家を支え続けました。
三河一向一揆
1563年、三河で一向一揆が起こり、家康の家臣の中にも一揆に加わる者が多く出ました。
上和田の砦
大久保一族は家康の側に立ち、上和田の砦を守って一揆勢と戦いました。
子どもたち
忠員の子には、大久保忠世・大久保忠佐・大久保忠教(彦左衛門)などがいます。いずれも家康に仕えた武将たちです。
大久保忠世
長男の忠世は、徳川家の重臣として遠江の二俣城主などを務め、のちに小田原城主となりました。
大久保彦左衛門
忠教(彦左衛門)は、のちに『三河物語』を書き、徳川家と大久保一族の歴史を後世に伝えました。
孫の大久保忠隣
忠世の子の忠隣は、二代将軍秀忠の重臣として幕府の政治を担いました。
長寿
忠員は長寿で、70歳を超えるまで生きたとされます。
最期
忠員は1582年に亡くなりました。
三河物語
『三河物語』には、大久保一族が松平家・徳川家のために尽くしてきた様子が、生き生きと描かれています。
大久保一族の繁栄
忠員の子や孫たちは、徳川家の重臣として活躍し、大久保家は江戸時代を通じて大名として続きました。
大久保家の出自
大久保家は、もとは宇都宮氏の流れをくむとされ、のちに三河に移って松平家に仕えたと伝えられます。
一族の結束
大久保一族は、兄弟や親類が力を合わせて主家に仕えたことで知られます。忠員は、その一族をまとめる長老でした。
家康の人質時代
家康が今川家の人質として駿府で過ごしていた間も、大久保一族は三河で松平家の家臣団を支え続けました。
上和田
大久保一族の本拠であった上和田は、現在の愛知県岡崎市にあたります。
大久保忠佐
忠員の子の忠佐は、勇将として知られ、のちに駿河の沼津の大名となりました。
大久保長安との違い
江戸時代のはじめに活躍した大久保長安は、大久保家とは血のつながりがなく、忠隣から大久保の姓を与えられた人物でした。
忠員の評価
忠員は、清康・広忠・家康の三代に仕え、多くの勇将を育てた大久保家の長老です。その子孫たちは、徳川家を支える重臣として大きく活躍しました。
このイラストについて
白いひげの老将が武器を手にし、雨の降る中、木の柵と砦を背にした姿です。
木の柵と砦は、三河一向一揆のときに大久保一族が守った上和田の砦をイメージしています。白いひげの老将の姿は、三代にわたって松平家に仕えた大久保家の長老としての忠員を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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