にいろ りょあん
| 地域 | 九州(薩摩・大隅) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 島津家臣・元僧侶 |
| 大名家 | 島津家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | ― |
| 武将タイプ | 知将・交渉役 |
新納旅庵は、島津義弘に仕えた家老である。もとは肥後八代の寺の住職だったが、島津義久の命で還俗し、義弘の重臣となった。関ヶ原の戦いのあとは捕らえられながらも許され、島津家の本領安堵のために上方と薩摩を行き来した。
僧から島津家の家老へ
旅庵は天文22年(1553)の生まれとされる。島津氏の一族である新納氏の出身と伝わる。
はじめは肥後八代(熊本県八代市)の荘厳寺の住職であった。のちに島津義久の命で還俗し、弟の島津義弘の家老に付けられたという。義弘が帖佐(鹿児島県姶良市)に館を造ったときには、その工事の監督を務めたとされる。
僧として学んだ教養と、ものごとをまとめる力が買われたのであろう。後世には「黒衣の宰相」と呼ばれたとも伝わる。
新納氏は島津氏の一族の家で、島津家の中でも重臣を多く出した家柄である。旅庵がもともと寺に入っていたのは、戦国時代の武家の子にはよくあることで、寺で読み書きや学問を身につけた者が、のちに家の役に立つことも多かった。
朝鮮出兵と関ヶ原の戦い
旅庵は文禄の役で朝鮮に渡り、義弘のもとで働いた。高原・栗野・市来などの地頭も務めたとされる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、義弘のもとに駆けつけて戦った。島津勢は敵中を突破して退いたが、その途中で旅庵は義弘とはぐれてしまう。京都の鞍馬山に隠れていたところを、知り合いであった徳川方の山口直友に捕らえられた。
その後、義弘が徳川家康に願い出たことで、旅庵は許されたと伝わる。
島津家を守るための奔走
関ヶ原のあと、島津家は西軍についた責任を問われる立場にあった。旅庵は家康の使者とともに薩摩に下り、そのあとも上方との間を何度も行き来した。徳川方との話し合いに力を尽くし、島津家が領地を失わないよう働いたのである。
やがて島津忠恒(のちの家久)が上洛し、島津家の本領が認められた。旅庵はそれを見届けた直後の慶長7年(1602)、大坂で亡くなったとされる。50歳であったという。
関ヶ原で敗れた側の大名の多くが領地を減らされる中、島津家は領地をそのまま守ることができた。旅庵のような家臣たちの粘り強い交渉が、その一つの支えになったといえる。
墓所と子孫
旅庵の墓は、鹿児島県姶良市の願成寺跡の墓地にある。享和元年(1801)には、子孫の新納時忠が墓を作り直したと伝わる。江戸時代にも子孫が薩摩藩で家を伝えていたことがうかがえる。
主君の義弘も晩年を姶良の地で過ごしており、旅庵の墓は義弘ゆかりの地に残る史跡の一つとなっている。
ゆかりの地
- 新納旅庵の墓(鹿児島県姶良市・願成寺跡墓地):旅庵の墓所。享和元年に子孫が作り直したと伝わる
参考にした資料
新納旅庵とは
新納旅庵は、もとは僧で、のちに島津家の家老となった人物です。
関ヶ原の戦い
旅庵は、関ヶ原の戦いで島津義弘に従いました。
島津家を守る
関ヶ原ののち、旅庵は家康側との交渉に関わり、島津家の存続のために奔走したとされます。
評価
旅庵は、僧から家老となり、関ヶ原ののちの島津家の危機を支えた人物です。
このイラストについて
このイラストは、山城の見える縁側で、茶碗を手に座る旅庵を描いています。
剃髪した頭と落ち着いた表情で、僧から家老となった旅庵の静かな知恵を表しました。
山と城は、島津家が治めた薩摩の景色をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
鎌倉時代から薩摩・大隅・日向の守護を務めた名門。戦国時代の初めには一族の分家どうしが争って勢力が分裂していたが、分家の相州家から出た島津忠良(日新斎)と子の貴久が本家を継ぎ、薩摩の統一を進めた。
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