うじいえ さだなお
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 最上家臣 |
| 大名家 | 最上氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 宿老・忠義 |
氏家定直は出羽の最上氏の重臣で、官途は伊予守である。最上義定の没後、その養子の義守を支える第一の重臣となった。元亀元年(1570)ごろの義守・義光父子の対立では義守を諫め、義光への家督移行に道を開いたとされる。
目次
最上義守の宿老
氏家定直は出羽の最上氏の重臣で、官途は伊予守。元服の際、最上義定から一字を受けて定直と名乗ったとされる。義定の死後は、その養子となった最上義守に仕えた。義守は最上一族の中野氏の出で、幼くして義定の跡を継いだとされる。
最上義光歴史館によると、定直が重臣として活動するのは、義守が20歳を過ぎた天文12〜13年(1543〜44)ごろからである。米沢の伊達氏との外交折衝では後見役を務めた。義守政権の宿老で、第一の重臣と位置づけられている。
天文の乱と伊達氏
天文11年(1542)、伊達氏では当主の稙宗と子の晴宗が争う天文の乱が起こった。南奥羽の諸家を巻き込んだ内乱である。最上氏は稙宗方についた。定直は若い義守を支えて戦い、その後の和平交渉にも力を尽くしたとされる。
乱は天文17年(1548)、晴宗方の優位のうちに終わった。最上氏にとって伊達氏は、隣国として最も重要な相手であり続けた。
義守・義光父子の対立
元亀元年(1570)ごろ、義守と嫡男の義光が対立した。定直は病床から義守を諫め、最上家は義光に任せるのがよいと説いたと伝わる。義守は政治から退いて龍門寺に入り、義光が家督を継いだ。
定直の跡は嫡男の守棟(尾張守)が継いだ。守棟は義光の側近として、出羽南部の統一を支えた重臣である。





























