蒲池鎮漣 | 筑後柳川城主。大友から龍造寺へ乗り換えるも隆信に疑われ、肥前佐賀へ呼び出されて殺害された悲運の当主

蒲池鎮漣のイラスト(イメージ)

かまち しげなみ

地域九州
所属勢力・属性筑後蒲池氏
大名家筑後蒲池氏
家紋丸に三ツ引き
主武器太刀
衣装・甲冑華美具足
武将タイプ悲壮・謀殺

筑後柳川城主。大友から龍造寺へ乗り換えるも隆信に疑われ、肥前佐賀へ呼び出されて殺害された悲運の当主。

目次

柳川の蒲池家

鎮漣は、筑後の柳川城を本拠とした蒲池家の当主です。蒲池家は、筑後の国衆の中でも有力な家でした。

父蒲池鑑盛

父の蒲池鑑盛は、大友家に忠実な武将として知られ、困っていた龍造寺隆信をかくまったこともあったと伝えられます。

柳川城

柳川城は、堀割に囲まれた水の城で、「柳川三年肥後三月」といわれるほど攻めにくい城でした。

龍造寺家との縁

鎮漣は、龍造寺隆信の娘を妻に迎えたとされ、龍造寺家と結びついていました。

耳川の戦い

1578年、大友家は日向の耳川で島津家に大敗しました。この戦いで、父の鑑盛も討死しました。

龍造寺家に従う

大友家が衰えると、鎮漣は龍造寺家に従うようになりました。

隆信からの離反

しかし、鎮漣はやがて隆信から離れ、島津家に近づこうとしたとされます。

柳川城の籠城

1580年、隆信は大軍で柳川城を攻めました。鎮漣は堅い守りの柳川城に立てこもり、龍造寺軍の攻撃をしのぎました。

和睦

攻めあぐねた隆信は、鎮漣と和睦を結びました。

佐賀への招き

1581年、隆信は鎮漣を佐賀に招きました。

謀殺

鎮漣は、佐賀に向かう途中、龍造寺家の兵に討たれたと伝えられます。

蒲池家の滅亡

その後、龍造寺家は柳川に兵を送り、蒲池家の一族を滅ぼしました。

隆信への反発

この出来事は、筑後の国衆たちの隆信への反発を強め、龍造寺家の支配が揺らぐ一因になったともいわれます。

恩を仇で

父の鑑盛が隆信をかくまったことがあったと伝えられることから、蒲池家の滅亡は、恩を仇で返した出来事として語られることがあります。

水郷柳川

柳川は、町じゅうに堀割がめぐらされた水の町です。今では川下りで知られる観光地となっています。

柳川のその後

蒲池家の滅亡の後、柳川は龍造寺家の支配を経て、豊臣秀吉の九州平定の後には立花宗茂が治めることになりました。

蒲池家の血筋

蒲池家の一族の中には、難を逃れて生き延びた者もいたと伝えられます。

柳川城の堀

柳川城は、町じゅうに巡らされた堀割に守られた水の城で、攻める側にとって近づきにくい城でした。

立花宗茂の柳川

龍造寺家の後、豊臣秀吉の九州平定を経て、柳川は立花宗茂が治めることになりました。

鎮漣の評価

鎮漣は、大友・龍造寺・島津という大きな勢力の間で揺れ動き、龍造寺隆信に謀殺された柳川の領主です。その悲劇は、戦国時代の九州の国衆がたどった厳しい運命を物語っています。

このイラストについて

甲冑姿の武将が床几に腰掛け、霧に包まれた山並みと城を背にした姿です。

床几に腰掛けた姿は、蒲池家の当主として大きな勢力の間で家の行く末を考え続けた鎮漣をイメージしています。背景の城と旗は、鎮漣が龍造寺の大軍を相手に守り抜いた柳川城の籠城を思わせるものです。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

蒲池家

筑後の柳川城を本拠とした国衆。蒲池鑑盛は大友氏に忠節を尽くし、1578年の耳川の戦いで戦死した。

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家臣団

蒲池鑑広のイラスト(イメージ)
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