まつだいら きよやす
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 松平(徳川)氏 |
| 大名家 | 松平(徳川)氏 |
| 家紋 | 徳川葵 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 華美具足 |
| 武将タイプ | 天才・薄命 |
徳川家康の祖父。わずか20代で三河をほぼ統一する英才を示したが、「守山崩れ」にて家臣の誤解により暗殺された。
徳川家康の祖父
清康は、三河の松平家の当主で、のちに天下を治める徳川家康の祖父にあたる人物です。
13歳で家督を継ぐ
清康は1511年に生まれ、1523年ごろ、わずか13歳ほどで松平家の家督を継いだとされます。
岡崎城を本拠に
清康は、安祥城(安城)から岡崎城に本拠を移しました。岡崎は、のちに家康が生まれる城となります。
三河の統一
清康は、三河の各地の国衆を次々と従え、三河のほぼ全体に勢力を広げたとされます。
若き勇将
清康は、若くして戦に強く、家臣たちから深く信頼された当主だったと伝えられます。
世良田を称す
清康は「世良田次郎三郎」を名乗ったとされます。世良田は新田氏につながる名で、家康がのちに源氏の流れを称するもとになったとも考えられています。
尾張への進出
三河を固めた清康は、西隣の尾張にも兵を進めました。尾張では、織田信秀(信長の父)が勢力を伸ばしていました。
守山への出陣
1535年、清康は尾張の守山に出陣しました。
家臣の不安
このとき、重臣の阿部定吉が清康に背こうとしているという噂が陣中に流れていました。
守山崩れ
陣中で馬が騒いだのを、子の阿部正豊(弥七郎)は父が討たれたと思い込み、清康に斬りかかりました。清康はこの場で命を落とし、25歳ほどの若さでした。この事件を「守山崩れ」と呼びます。
松平家の動揺
清康の突然の死によって、松平家は大きく揺らぎました。三河の国衆の中には、松平家から離れる者も出ました。
子の広忠
清康の子の広忠は、まだ幼く、一時は岡崎を追われるなど苦しい立場に置かれました。
今川家と織田家の間で
清康の死後、松平家は駿河の今川家と尾張の織田家の間で揺れ動くことになりました。孫の家康が人質として過ごしたのも、この流れの中のことです。
30歳まで生きていれば
『三河物語』には、清康がもし30歳まで生きていれば天下を取っただろう、という話が記されています。
阿部家のその後
清康を斬った正豊はその場で討たれましたが、父の定吉は許され、その後も松平家に仕えたとされます。
家康に受け継がれたもの
祖父の三河統一と、その早すぎる死による家の苦難は、孫の家康の生涯に大きな影響を与えました。
安祥松平家
清康の家は、三河の安祥(安城)を本拠とした松平家の一つで、「安祥松平家」と呼ばれます。この家が、のちに徳川家となりました。
大樹寺
岡崎の大樹寺は、松平家の菩提寺で、清康の墓とされるものも残されています。
妖刀村正の伝承
清康を斬った刀は伊勢の刀工・村正の作だったと伝えられ、のちに村正の刀が徳川家に災いをもたらすという伝承の一つになりました。
清康の評価
清康は、若くして三河をまとめ上げ、松平家を大きく飛躍させた当主です。その突然の死は家に苦難をもたらしましたが、孫の家康がその志を受け継ぎ、天下を治めることになりました。
このイラストについて
若々しい武将が軍配を手にし、夕焼けの空を背にした姿です。
手にした軍配と夕焼けの空は、若くして三河を統一し、尾張へと兵を進めた清康の勢いと、25歳ほどで生涯を閉じたその短い輝きを重ねて表しています。若い顔立ちは、13歳ほどで家督を継ぎ、若くして亡くなった清康をイメージしたもので、想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の松平郷から出た家で、のちの徳川家の母体。松平清康は20代で三河をほぼ統一したが、1535年、尾張へ出陣中に家臣の阿部正豊に斬られて亡くなった(守山崩れ)。
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