しおのや よしつな
| 地域 | 関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 宇都宮家臣(のち佐竹家臣) |
| 大名家 | 下野塩谷 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 衰退・改易 |
塩谷義綱は下野国塩谷郡の川崎城を本拠とした塩谷氏の当主で、宇都宮氏の重臣である。父義孝の暗殺後に城を回復し、豊臣秀吉から所領を安堵された。文禄4年(1595)に改易され、のち佐竹義宣に仕えて出羽十二所城主となったとされる。
塩谷氏と川崎城
塩谷氏は下野国塩谷郡(現在の栃木県矢板市周辺)を本拠とした一族である。居城の川崎城は、1200年頃に塩谷朝業が築いたと伝わる。発掘調査では15世紀前半から16世紀の遺物が出土している。戦国時代の塩谷氏は、下野の有力大名である宇都宮氏に従う重臣の家であった。
義綱は塩谷義孝の嫡男である。生年は永禄7年(1564)頃とする説と、永禄2年(1559)とする説がある。永禄7年10月、叔父の孝信が謀反を起こし、父義孝は川崎城で殺害された。義綱は家臣に助けられて城を脱出し、永禄9年(1566)に川崎城を取り戻したとされる。
宇都宮氏の重臣として
義綱は宇都宮国綱に従った。天正13年(1585)の薄葉ヶ原の戦いでは、宇都宮方の連合軍に加わったとされる。薄葉ヶ原の戦いは、那須氏と宇都宮氏らが下野北部で争った合戦である。
天正17年(1589)6月、義綱は聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、所領を安堵された。しかし翌年、家臣の岡本正親と庶兄の義通が秀吉の後押しを得て独立した。このため塩谷氏の所領は実質的に減った。
改易と佐竹家への出仕
文禄4年(1595)2月、義綱は秀吉から改易を命じられ、川崎城を退去した。主家の宇都宮氏が改易されるのは慶長2年(1597)であり、義綱の改易はそれより前である。
慶長2年1月、義綱は常陸の佐竹義宣に家臣として初めて出仕した。江戸時代には佐竹氏の重臣として、出羽国十二所城(現在の秋田県大館市)の城主を務めたとされる。没年は明らかでなく、享年73とする説がある。子に貞綱・守綱がいたと伝わる。
ゆかりの地
- 川崎城跡(栃木県矢板市):塩谷氏代々の居城。市指定史跡で、現在は川崎城跡公園として整備されている
参考にした資料
塩谷氏とは
塩谷氏は、下野の塩谷郡に根を張った一族で、宇都宮家の一族の流れをくむ家とされます。
川崎城跡
塩谷氏の本拠の川崎城は、今の栃木県矢板市にありました。城跡は公園として整備され、堀や土塁の跡を見ることができます。
宇都宮家の改易
慶長2年(1597年)、主家の宇都宮国綱は豊臣秀吉によって改易されました。重臣の塩谷氏も、これとともに領地を失いました。
佐竹家の秋田移り
義綱が仕えた佐竹家は、関ヶ原の戦いの後、常陸から出羽の秋田へ移されました。家臣たちも、主家とともに北の地へ向かいました。
評価
義綱は、宇都宮家の重臣として川崎城を守り、主家の改易ののちは佐竹家に仕えた人物です。その歩みは、主家を失った北関東の武士たちの生き方を伝えています。
このイラストについて
このイラストは、城と町並みを背に、書状を手に静かに立つ義綱を描いています。
目を伏せた落ち着いた表情と、紋の入った羽織で、主家の改易という大きな変化に向き合う重臣の思いを表しました。
背後の城は、塩谷氏が本拠とした川崎城と、宇都宮家ゆかりの下野の城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
下野の塩谷郡を本拠とした家で、宇都宮氏の一族とされる。川崎城(矢板市)などを拠点に、宇都宮氏の家臣として那須氏との境を守った。
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