川上久隅 | 島津義弘の忠臣。泗川の戦いなど朝鮮の役での激戦において義弘の本陣を守り抜いた

川上久隅のイラスト(イメージ)

かわかみ ひさずみ

地域九州
所属勢力・属性島津家臣
大名家島津
家紋丸に十字
主武器太刀
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ堅実・忠臣

島津義弘の忠臣。泗川の戦いなど朝鮮の役での激戦において義弘の本陣を守り抜いた。

目次

島津義弘の忠臣

久隅は、薩摩の島津家に仕えた重臣で、島津義弘の忠臣として知られます。

川上家

川上家は、島津家に仕えた有力な家臣の家の一つでした。

父川上昌久

久隅の父の川上昌久は川上家の10代当主で、島津家の家老を務めた重臣でした。

生まれ

久隅は、1532年に生まれたとされます。

義弘の家老

久隅は、島津義弘の家老として、義弘を支えました。

島津家の九州制覇

義弘は、木崎原の戦いや耳川の戦いなどで活躍し、島津家の九州制覇を支えました。久隅も、義弘とともに戦いました。

豊臣秀吉の九州平定

1587年、秀吉が九州を平定し、島津家は降伏しました。

朝鮮出兵

1592年からの秀吉の朝鮮出兵で、義弘は大軍を率いて朝鮮に渡りました。久隅も、これに従いました。

泗川の戦い

1598年、島津軍は朝鮮の泗川で、明・朝鮮の大軍と戦いました。

本陣を守る

久隅は、この泗川の戦いで、義弘の本陣を守り抜いたとされます。

島津軍の勝利

泗川の戦いで、島津軍は数倍の敵を打ち破り、その名を大いに高めました。

鬼島津

この戦いぶりから、義弘は「鬼島津」と呼ばれて恐れられたと伝えられます。

最期

久隅の晩年や最期の詳しいことについては、はっきりしない部分もあります。

川上家のその後

川上家は、その後も薩摩藩の重臣の家として続きました。

島津義弘という主君

義弘は、島津四兄弟の次男で、生涯に多くの戦いで活躍した勇将です。関ヶ原の戦いでは、敵中突破によって薩摩に帰ったことでも知られます。

家老の役目

家老は、主君のそばで政治や軍事を支える重臣でした。戦場では、主君の本陣を守ることも大切な役目でした。

泗川の地

泗川は、朝鮮半島の南部にある土地で、島津軍はここに城を築いて守っていました。

朝鮮からの撤退

1598年、秀吉が亡くなると、日本の軍は朝鮮から撤退しました。島津軍も、激しい戦いを経て日本に帰りつきました。

川上家の家老たち

川上家からは、久隅のほかにも島津家の家老を務めた人物が出ています。

義弘の家臣団

義弘の家臣団は、朝鮮や関ヶ原の戦いで義弘とともに激しい戦いをくぐり抜けた、結束の強い武士たちでした。

久隅の評価

久隅は、島津義弘の家老として、朝鮮の泗川の戦いなどの激戦で義弘の本陣を守り抜いたとされる忠臣です。その働きは、義弘の武名を支えるものでした。

このイラストについて

甲冑姿の武将が、夕日に照らされた山並みと山城、旗を背にした姿です。

夕日に照らされた山並みと山城は、島津家が治めた南九州の風景をイメージしています。落ち着いた表情は、義弘の家老としてその本陣を守り抜いたとされる久隅を表しています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

島津家

鎌倉時代から薩摩・大隅・日向の守護を務めた名門。戦国時代の初めには一族の分家どうしが争って勢力が分裂していたが、分家の相州家から出た島津忠良(日新斎)と子の貴久が本家を継ぎ、薩摩の統一を進めた。

島津家の歴史と武将一覧を見る →

主家

島津家久島津忠恒島津忠長のイラスト(イメージ)島津歳久島津義久島津義弘

家臣団

上井覚兼のイラスト(イメージ)伊集院忠倉のイラスト(イメージ)伊集院忠棟のイラスト(イメージ)伊集院忠真のイラスト(イメージ)内田実久のイラスト(イメージ)北郷三久のイラスト(イメージ)北郷時久のイラスト(イメージ)喜入季久のイラスト(イメージ)土持親成のイラスト(イメージ)山田有信のイラスト(イメージ)山田有栄のイラスト(イメージ)島津彰久のイラスト(イメージ)島津忠仍のイラスト(イメージ)島津豊久川上忠智のイラスト(イメージ)平田光宗のイラスト(イメージ)平田増宗のイラスト(イメージ)新納忠元のイラスト(イメージ)新納忠堯のイラスト(イメージ)新納旅庵のイラスト(イメージ)東郷重位のイラスト(イメージ)猿渡信光のイラスト(イメージ)町田久倍のイラスト(イメージ)祢寝重長のイラスト(イメージ)薬丸兼将のイラスト(イメージ)遠矢良賢のイラスト(イメージ)鎌田政近のイラスト(イメージ)頴娃久虎のイラスト(イメージ)
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次