安藤重信 | 秀忠の年寄(老中)を務めた上野高崎藩主

あんどう しげのぶ

地域関東
所属勢力・属性徳川家臣
大名家徳川
家紋―
主武器太刀・行政書状
衣装・甲冑高級具足
武将タイプ老練・老将

安藤重信は徳川家康・秀忠に仕えた武将・大名で、安藤直次の弟である。関ヶ原の戦いでは秀忠に従って信濃上田城攻めに加わった。慶長16年(1611)に秀忠の年寄(のちの老中)に列し、元和5年(1619)に上野高崎藩主となった。

目次

家康に仕えた前半生

重信は弘治3年(1557)、三河で安藤基能の次男として生まれた。兄の直次は、のちに紀伊徳川家の付家老となった人物である。重信は若くして家康に仕え、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに加わった。

秀忠のもとで

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、家康の三男秀忠の軍に属した。秀忠軍は中山道を進み、真田昌幸が守る信濃上田城を攻めたが落とせず、関ヶ原の本戦に間に合わなかった。重信もこの上田城攻めに加わった。

慶長16年(1611)、重信は秀忠の年寄に加わり、幕府の文書に署名する加判の役を務めた。年寄はのちの老中にあたる職で、将軍のそばで政務を担った。当時は大御所家康が駿府に、将軍秀忠が江戸にいて政治を分担しており、重信は江戸の秀忠側で政務にあたった。翌年には下総で1万石を与えられて大名となった。

大坂の陣と高崎藩

慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣にも従軍した。戦後の加増を経て、元和5年(1619)に上野高崎(群馬県高崎市)へ移り、5万6600石(5万4000石とも)を領した。

同じ元和5年、広島城主福島正則が無断で城を修築したとして改易された。重信はこのとき、永井直勝らとともに広島城の受け取りにあたった。正則は信濃・越後に減封された。元和7年(1621)6月29日、65歳で没した。

ゆかりの地

  • 高崎城(群馬県高崎市):元和5年から重信が藩主を務めた城

参考にした資料

徳川家

主家

家臣団

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