筑紫晴門 | 筑紫広門の弟

筑紫晴門のイラスト(イメージ)

ちくし はるかど

地域九州
所属勢力・属性筑紫氏
大名家筑紫氏
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑軽捷具足
武将タイプ勇猛・悲壮

筑紫広門の弟。勝尾城の支城・鷹取城を守り、天正14年の島津軍の攻撃で川上忠堅と一騎打ちの末に討死したと伝わる。

目次

筑紫氏と勝尾城

筑紫晴門は肥前の国衆筑紫氏の一族で、当主筑紫広門の弟である。春門とも書く。通称は左衛門大夫と伝わる。

筑紫氏は武藤氏(少弐氏)の一門とされる。明応6年(1497)ごろ筑紫満門が勝尾城(現在の佐賀県鳥栖市)を本拠とし、以後5代約90年在城した。所領は佐賀県東部から筑前の一部に及び、北部九州では龍造寺氏・秋月氏に次ぐ勢力だった。

鷹取城主としての晴門

勝尾城は本城の周りに複数の支城を置いた山城群である。そのうち標高約290mの高取城(鷹取城)が晴門の居城だったと、鳥栖市は紹介している。

軍記『北肥戦記』によれば、天正6年(1578)に11歳の晴門が鍋島直茂の養子として佐嘉へ行ったという。これは軍記の記述であり、細部の確認は難しい。

天正14年の島津軍との戦い

天正14年(1586)、島津氏は北上して筑紫氏を攻めた。勝尾城は2万余りの軍勢に攻められて落城し、広門は筑後の大善寺に幽閉された。広門は同年8月に城を奪い返している。

この年の島津軍の北上では、7月に筑前の岩屋城が落ち、城将の高橋紹運が戦死している。筑紫氏への攻撃はこの一連の戦いの一部だった。

この戦いで晴門は大手口で島津方の川上忠堅と一騎打ちをし、討ち取られたと伝わる。忠堅もこのとき受けた傷がもとで間もなく死んだという。一騎打ちの詳細は主に軍記による。

翌天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定で島津氏は降伏した。筑紫氏は勝尾城を離れ、広門は筑後に所領を与えられた。鳥栖市によれば、筑紫氏の勝尾城在城はこの天正15年までである。

ゆかりの地

  • 勝尾城筑紫氏遺跡(佐賀県鳥栖市):勝尾城と支城群・城下町跡。国指定史跡(平成18年から3次指定)
  • 鷹取(高取)城跡(佐賀県鳥栖市):晴門の居城と紹介される支城

参考にした資料

筑紫氏

筑紫氏は、肥前の東部の基山のあたりを本拠とした国衆です。少弐家の家臣として力をつけ、のちに大友家や龍造寺家、島津家の間で揺れ動きました。

勝尾城

筑紫氏の本拠の勝尾城は、今の佐賀県鳥栖市にあった山城です。城の周りには家臣の屋敷や町が広がり、その跡は国の史跡になっています。

筑紫広門

筑紫氏の当主・広門は、大友家と島津家の間で立場を変えながら家を守りました。のちに秀吉の九州平定に協力し、筑後に領地を与えられています。

島津の北上

天正14年(1586年)、島津家は筑前・肥前へと大軍を送りました。島津方は勝尾城を攻め、さらに岩屋城の高橋紹運を攻めました。

勝尾城の落城

このとき勝尾城は島津方に攻められて降伏し、広門は捕らえられました。筑紫氏の城の多くも、この戦いで島津方の手に落ちたとされます。

燃える城

戦国時代の城攻めでは、城や城下に火がかけられることが多くありました。山城が燃える光景は、戦いの激しさを伝えるものでした。

筑紫氏のその後

広門は、関ヶ原の戦いで西軍についたため、戦の後に領地を失いました。

評価

晴門は、筑紫氏の一族として城を守り、島津の大軍に立ち向かった武将と伝えられます。その戦いは、九州の戦国の終わりの激しさを伝えています。

このイラストについて

このイラストは、炎の上がる山城を背に立つ晴門を描いています。

若々しい顔つきと、風に乱れた髪で、島津の大軍を前にした武将の緊張と覚悟を表しました。

燃える城と煙は、天正14年の島津軍との戦いをイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

筑紫家

筑前・肥前の境の勝尾城を本拠とした国衆。筑紫広門は大友・龍造寺・島津の間で従う相手を変えながら家を保った。

筑紫家の歴史と武将一覧を見る →
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