つだ けんもつ
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 根来衆 |
| 大名家 | 根来衆 |
| 家紋 | 丸に三ツツキ |
| 主武器 | 鉄砲・太刀 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 豪傑・銃術 |
津田算長の子。根来寺の軍事力を指揮し、秀吉の紀州征伐で根来寺が焼討ちされるまで織田・豊臣軍と戦った。
津田算長の子
監物は、紀伊の根来寺の杉の坊を拠点とした津田算長の子です。父と同じく「津田監物」の名で知られます。
父と子の同じ名
「監物」はもともと朝廷の役職の名で、津田家では父の算長も子も監物を名乗りました。そのため、父子の事績は記録の中でしばしば混同されています。
父算長と鉄砲
父の算長は、種子島に伝わった鉄砲を紀伊に持ち帰り、根来で鉄砲づくりを始めたと伝えられる人物です。
鉄砲を受け継ぐ
監物は、父が根来にもたらした鉄砲と、その扱いの技を受け継ぎました。
根来寺
根来寺は、紀伊の北部にある真言宗の大きな寺で、戦国時代には多くの僧兵を抱えていました。
根来衆の軍事力
根来寺の僧兵たちは「根来衆」と呼ばれ、鉄砲を多く備えた強い軍事力を持っていました。監物は、その軍事力を指揮する立場にあったとされます。
雇われる鉄砲集団
根来衆は、各地の大名に雇われて戦うこともありました。戦国時代の後半には、根来の鉄砲は大きな力として恐れられました。
織田信長との関係
根来衆は、織田信長と結ぶことも争うこともあり、情勢に応じて立場を変えたとされます。
羽柴秀吉との対立
本能寺の変の後、根来衆は羽柴秀吉と対立するようになりました。
小牧・長久手の戦いのころ
1584年、秀吉と徳川家康が小牧・長久手で戦うと、根来衆は雑賀衆とともに家康方につき、秀吉の留守を突いて和泉の岸和田城などを攻めました。
紀州征伐
1585年、秀吉は大軍で紀伊に攻め込みました。これを「紀州征伐」と呼びます。
根来寺の焼き討ち
秀吉の軍は根来寺を焼き討ちにし、根来衆の力はここで失われました。
その後の津田家
根来寺が焼かれた後、津田家の一族の中には、各地の大名に鉄砲の技で仕えた者もいたとされます。
津田流砲術
津田家に伝わった鉄砲の技は「津田流」と呼ばれ、その後も砲術の流派として受け継がれました。
伝承と史料
監物父子の事績には、後世の記録や家の伝えによる部分が多く、どこまでが父の事績で、どこからが子の事績なのか、はっきりしないところもあります。
根来寺の今
根来寺は、焼き討ちののちに再建され、今も和歌山県岩出市にあります。大塔は焼き討ちを逃れた建物として知られます。
監物の評価
監物は、父の算長が根来にもたらした鉄砲の技を受け継ぎ、根来衆の軍事力を率いて織田・豊臣の軍と渡り合ったとされる人物です。その戦いは、秀吉の紀州征伐による根来寺の焼き討ちで終わりを迎えました。
このイラストについて
甲冑姿の男が火縄銃を手にし、鉄砲を持つ兵たちと寺の建物を背にした姿です。
手にした火縄銃と鉄砲を持つ兵たちは、父から受け継いだ鉄砲の技で根来衆の軍事力を率いた監物をイメージしています。背景の寺の建物は、根来衆の拠点であった根来寺を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
紀伊の根来寺(新義真言宗)の僧兵集団。根来寺は多くの子院と広大な寺領を持ち、僧兵たちは鉄砲をいち早く取り入れたことで知られる。種子島から鉄砲を持ち帰ったとされる津田監物(算長)も根来寺の関係者と伝えられる。
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