加藤貞泰 | 黒野・米子を経て伊予大洲藩加藤家の初代藩主

かとう さだやす

地域東海・中国
所属勢力・属性加藤(光泰)氏
大名家加藤(光泰)氏
家紋―
主武器太刀・大槍
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ勇猛・不屈

加藤貞泰(1580〜1623)は加藤光泰の長男。父の死後、甲斐から美濃黒野4万石に移された。関ヶ原では東軍に加わり、伯耆米子6万石を経て、大坂の陣の功により元和3年(1617)伊予大洲6万石に移った。大洲藩加藤家の初代藩主である。

目次

甲斐から美濃黒野へ

加藤貞泰は天正8年(1580)、加藤光泰の長男として近江国磯野村に生まれた。初名は光長。父光泰は豊臣秀吉の家臣で、甲斐国24万石を領した。光泰は文禄の役で朝鮮に渡り、陣中で没した。

貞泰は文禄3年(1594)に父の遺領を継いだ。しかし若年を理由に、美濃国黒野(岐阜市)4万石へ移された。父光泰と石田三成の不和が背景にあったとされる。黒野では黒野城を築き、河川の堤防工事を行った。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600)、貞泰ははじめ三成方として尾張犬山城の守備に加わった。犬山城には城主石川貞清のほか、美濃・尾張の諸将が加勢として入っていた。一方で弟を人質として徳川家康に送り、犬山城の加勢衆を家康方に誘ったとされる。その後は東軍に加わり、島津義弘の軍と戦ったという。戦後も美濃黒野の所領は保たれた。

米子から大洲へ

慶長15年(1610)、2万石を加増されて伯耆国米子6万石に移った。米子の前領主中村氏が跡継ぎなく断絶したことを受けた転封である。米子城は吉川広家が築き始め、中村氏の代に完成した城で、貞泰はここを居城とした。米子在城は7年ほどであった。大坂の陣では徳川方として参戦し、その功により元和3年(1617)、伊予国大洲6万石に移された。

大洲では大洲城を修復した。藩船の運航にあたる船手組を組織するなど、藩の基盤を整えた。詩や和歌、連歌をたしなんだとも伝わる。

元和9年(1623)5月22日、江戸で没した。44歳。江戸の菩提寺海禅寺に葬られ、大洲にも墓所が設けられた。大洲藩は明治2年(1869)の版籍奉還まで加藤家が治めた。大洲藩からはのち、貞泰の次男直泰に1万石が分けられ、新谷藩が成立した。

ゆかりの地

  • 大洲城(愛媛県大洲市):貞泰が修復した大洲藩の居城
  • 黒野城跡(岐阜県岐阜市):貞泰が美濃黒野時代に築いた城

参考にした資料

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