壬生綱雄 | 下野壬生氏の当主、鹿沼・壬生城主

みぶ つなたけ

地域下野国(栃木県壬生町・鹿沼市)
所属勢力・属性宇都宮家臣から自立、北条方
大名家壬生氏
家紋―
主武器刀
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ下克上の国衆

壬生綱雄は、下野国(栃木県)の壬生城・鹿沼城を本拠とした壬生氏の当主である。父の綱房とともに主家の宇都宮氏から宇都宮城を奪ったが、のちに城を追われた。北条氏を頼ったことで宇都宮氏寄りの叔父・周長と対立し、天正4年(1576)に周長に殺害された。

目次

壬生氏の起こり

壬生氏は、室町時代に壬生胤業が壬生城(栃木県壬生町)を拠点としたことから始まる。そのあと綱重、綱房、綱雄、義雄と続き、5代にわたって戦国大名として壬生城を治めた。

壬生氏は、下野の有力大名・宇都宮氏の家臣という立場にあった。綱雄の父・綱房は天文元年(1532)、鹿沼の坂田山に城を築いたとされ、壬生と鹿沼の二つの地を支配の柱にした。

主家の宇都宮氏は、鎌倉時代から下野を治めた名門で、芳賀氏や益子氏などの有力な家臣をかかえていた。壬生氏はその中で力をのばした新しい家であった。

宇都宮城の奪取

天文18年(1549)、宇都宮尚綱が那須高資との喜連川五月女坂の戦いで討死した。綱房と綱雄の父子はこの混乱に乗じて、主家の居城である宇都宮城を占拠したとされる。家臣が主家の城を奪う、いわゆる下克上である。

しかし弘治3年(1557)、尚綱の子・宇都宮広綱が重臣の芳賀高定の助けで宇都宮城に戻った。綱雄は宇都宮城を追われ、鹿沼城あるいは壬生城に退いたとされる。

北条氏への接近と最期

宇都宮城を失ったあと、綱雄は関東で勢力を広げていた小田原の北条氏を後ろだてにしたとされる。これに対し、叔父の徳雪斎周長(綱房の弟)は宇都宮氏に従う立場をとり、一族の中で対立が深まった。

天正4年(1576)、綱雄は周長に殺害された。周長が芳賀高定とはかり、鹿沼城の天満宮で綱雄を討ったとも伝わる。鹿沼市の年表にも、この年に周長が綱雄を殺害したことが記されている。

子・義雄と壬生氏の滅亡

綱雄の子・義雄は、天正7年(1579)に皆川広照などの支援を受けて周長を倒し、鹿沼城に入ったとされる。義雄は父と同じく北条氏と結び、宇都宮氏と争い続けた。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めで義雄は北条方についた。鹿沼城は落城し、義雄は小田原で亡くなったとされる。北条氏の敗北とともに壬生氏は滅び、大名としての家は絶えた。

壬生城は、江戸時代には壬生藩の藩庁として使われた。今は城址公園として整備され、壬生氏が治めた時代の面影を伝えている。

ゆかりの地

  • 鹿沼城跡(栃木県鹿沼市今宮町):壬生氏が鹿沼支配の拠点とした坂田山の城
  • 壬生城跡(栃木県下都賀郡壬生町本丸):壬生氏が5代にわたって治めた本拠の城

参考にした資料

壬生綱雄とは

壬生綱雄は、下野の壬生氏の当主で、壬生綱房の子です。

北条家への接近

綱雄は、北条家と結んで勢力を保とうとしました。

綱雄の最期

綱雄は、一族の争いの中で命を落としたと伝えられます。

評価

綱雄は、宇都宮家の重臣の家から主家と争うほどの力を持った壬生氏の当主です。その家は、子の義雄に受け継がれました。

このイラストについて

このイラストは、夕暮れの城を背に座る綱雄を描いています。

兜をかぶり、どっしりと構えた姿で、主家と争った当主の存在感を表しました。

夕暮れの城と町は、綱雄が押さえた宇都宮城をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

壬生家

下野の壬生を本拠とした家。壬生綱房は宇都宮氏の家臣でありながら勢力を伸ばし、宇都宮城を一時奪うほどの力を持った。

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家臣団

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