瀬田正忠 | 利休七哲の一人「瀬田掃部」。掃部形の茶杓を残し、豊臣秀次事件に連座して世を去った

瀬田正忠のイラスト(イメージ)

せた まさただ

地域近畿(近江)
所属勢力・属性豊臣秀吉の家臣、のち豊臣秀次と親しく、秀次事件に連座。利休七哲の一人
大名家瀬田家
家紋不明
主武器槍・太刀
衣装・甲冑当世具足(戦陣)、肩衣・袴(茶席)
武将タイプ茶人武将・創意の人

瀬田正忠(せた まさただ)は、豊臣秀吉に仕えた武将で、「瀬田掃部(かもん)」の名で知られる茶人です。千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられ、大きな櫂先(かいさき)をもつ茶杓は、いまも「掃部形(かもんがた)」と呼ばれています。高山右近の推挙で秀吉に仕え、小牧・長久手から小田原まで秀吉の主な戦に従いましたが、関白・豊臣秀次と親しかったために、文禄4年(1595)の秀次事件に連座して命を落としました。

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目次

瀬田正忠の早見表

生没年天文17年(1548)ごろ〜文禄4年(1595)7月
名前通称は清右衛門。のちに伊繁(これしげ)と改名。官位の従五位下掃部頭から「瀬田掃部」と呼ばれた
出自不明。近江の瀬田にゆかりがあるとされる。小田原の北条家に仕えていたとする説もある
主君豊臣秀吉 → 豊臣秀次
おもな従軍小牧・長久手の戦い、九州平定、小田原征伐(玉縄城の守備)
茶の湯利休七哲の一人。「掃部形」の茶杓、平高麗の大きな茶碗、「さらし茶巾」の点前
最期秀次事件に連座

高山右近の推挙で秀吉のもとへ

正忠の生まれや若いころのことは、ほとんどわかっていません。近江の瀬田(いまの滋賀県大津市)にゆかりのある家とされ、はじめは小田原の北条家に仕えていたとする説もあります。

確かなのは、高山右近の推挙によって秀吉に仕えたことです。右近は利休の弟子で、熱心なキリシタンとして多くの武将に洗礼をすすめた人物です。正忠も右近を通じて茶の湯の世界に深く入っていったと考えられます。天正12年(1584)の暮れには、古田重然(織部)とともに堺の津田宗及の茶会に招かれており、このころには茶人としての顔も持っていました。

秀吉の戦に従って ― 小牧・長久手、九州、そして玉縄城

天正12年(1584)、正忠は小牧・長久手の戦いに従軍しました。翌年、秀吉が関白になると、正忠も従五位下・掃部頭の官位を受けます。秀吉は関白就任にあわせて、側近たちに一斉に官位を与えて政権の格を整えており、正忠もその一人として「掃部」を名のることになりました。

天正15年(1587)の九州平定、天正18年(1590)の小田原征伐にも加わっています。小田原征伐では、徳川家康らが開城させた相模の玉縄城(たまなわじょう、いまの神奈川県鎌倉市)に、古田織部とともに入って守りにつきました。北条家の重要な支城を、利休七哲の二人が預かったことになります。

その間の天正16年(1588)4月、後陽成天皇が聚楽第に行幸した際には、芝山宗綱とともに行列の先導をつとめたとされます。秀吉にとって生涯でも指折りの晴れ舞台に、茶の湯の仲間二人が先頭を歩いたのです。

「掃部形」の茶杓と、利休の朝茶

正忠は、茶の湯の道具や点前に自分なりの工夫をこらした人でした。愛用した茶杓は、湯をすくう先の部分(櫂先)が大きく広いもので、のちに彼の名をとって「掃部形」と呼ばれるようになります。茶碗も、朝鮮で焼かれた平たく大ぶりの平高麗茶碗を好んだと伝わります。

また、夏に平茶碗に水を張り、白い茶巾を沈めて涼しさを見せる「さらし茶巾」という点前は、正忠が考えたものといわれます。平茶碗の水を琵琶湖に、茶杓を瀬田の唐橋に見立てたという話も伝わっており、故郷の景色を茶席に持ちこんだ人物だったのかもしれません。

利休もこの弟子をかわいがっていました。芝山宗綱(監物)に宛てた利休の手紙には、掃部と監物の二人に明朝お茶を一服差し上げたい、その折にはかねて見たがっていた名物「橋立の壺」をお見せしましょう、と書かれています。橋立の壺は利休が秘蔵した茶壺で、それを見せる相手に選ばれていたことは、二人が利休の信頼の厚い弟子だったことを物語っています。

秀次とのつながり ― 秀次事件に連座して

利休の死後、正忠は秀吉の甥で関白となった豊臣秀次と親しくなりました。秀次は和歌や茶の湯、古典の収集にも熱心な文化人で、正忠のような教養ある武将を身近に置いていました。

しかし文禄4年(1595)7月、秀次は謀反の疑いをかけられて高野山へ追われ、切腹に追いこまれます(秀次事件)。秀次に近かった家臣や大名も次々に処罰され、正忠も連座して命を落としました。秀次の家老をつとめた前野長康や、秀長の家老だった羽田正親らも、この事件で命を絶たれています。

師の利休が切腹してから4年、正忠もまた秀吉の怒りの渦に巻きこまれて世を去りました。利休七哲のうち、天寿を全うできなかった人物は少なくありませんが、正忠はそのなかでも最も早く、豊臣家の内側の争いで命を失った一人でした。

家康が茶杓を折った話は本当か

江戸時代の逸話集には、徳川家康が手元にあった瀬田掃部作の茶杓を残らず折って捨てさせた、という話が載っています。掃部が豊臣家の内意を受けて蒲生氏郷を毒殺したことを、家康が憎んだからだというのです。

氏郷が亡くなったのは文禄4年2月で、正忠が世を去る5か月前ですから、日付のうえでは成り立たなくはありません。しかし、氏郷が毒殺されたという確かな証拠はなく、正忠がそうした密命を受ける立場にあったことを示す記録もありません。むしろ正忠は秀次に近い人物で、秀吉の側からは警戒される側でした。この話は、のちに家康を正しい人物として描くために作られたものと考えるのが自然でしょう。

瀬田正忠をめぐる人物

ゆかりの地

  • 瀬田の唐橋(滋賀県大津市):正忠の名の由来の地。茶杓の見立ての逸話が残る
  • 玉縄城跡(神奈川県鎌倉市):小田原征伐で古田織部とともに守った北条家の支城
  • 聚楽第跡(京都市上京区):行幸の先導をつとめ、のちに秀次の政庁となった邸宅の跡

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