つちもち ちかしげ
| 地域 | 日向国縣(宮崎県延岡市) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 日向北部の国人(大友方→島津方) |
| 大名家 | 土持氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 戦国期の当世具足 |
| 武将タイプ | 国人領主 |
土持親成は、戦国時代に日向国北部の縣(あがた。今の宮崎県延岡市)を治めた国人で、縣土持氏の最後の当主である。本拠は松尾城(延岡市松山町)だった。天正6年(1578)、大友宗麟に攻められて城を落とされ、捕らえられて自害させられた。
日向の古い豪族・土持氏
土持氏は、平安時代から日向国で力をもった古い豪族で、田部(たべ)の姓を名のった。宇佐八幡の神人として豊後から移ってきたと伝わる。鎌倉時代の初めには、日向の各地で地頭などの職をもっていた。
南北朝時代には足利方について戦った。やがて一族は日向の南と北に分かれて続いたが、戦国時代になると、南部の土持氏は伊東氏に、北部の土持氏は大友氏に滅ぼされた。親成は、この北部の土持氏、縣土持氏の当主である。
本拠・松尾城
縣土持氏の本拠は松尾城である。文安3年(1446)に土持宣綱が築いたとされるが、それを示す確かな古文書はなく、くわしいことはわかっていない。
城は大きな空堀(堀切)で区切った曲輪を重ね、攻めてくる敵の横から矢を射かけられるように工夫されていた。天正6年の大友氏の攻撃のときの記録には「土持要害松尾」という名が多く出てくる。
大友と島津のはざまで
親成のころの日向では、伊東氏が力を失い、南から島津氏が勢力をのばしていた。北には豊後の大友氏がいる。縣の土持氏は、この二つの大きな勢力にはさまれていた。
親成は大友氏に従っていたが、やがて島津氏と結んで大友氏から離れたとされる。これに怒った大友宗麟は、天正6年(1578)に日向へ兵を送った。松尾城は落とされ、親成は捕らえられて自害させられた。
その後の土持家
同じ年の秋、大友氏は耳川の戦いで島津氏に大敗する。そののち、親成の養子の高信は島津氏に仕えた。高信は島津義久から名の一字をもらい、土持久綱と名を改めた。
天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州攻めでは、松尾城は再び囲まれて落城した。こうして縣の領主としての土持氏は終わったが、一族の流れは島津氏の家臣団のなかに組み込まれて続いたとされる。
ゆかりの地
- 松尾城跡(宮崎県延岡市松山町):縣土持氏代々の本拠。天正6年に大友氏に攻め落とされた
参考にした資料
土持親成とは
土持親成は、日向北部を治めた土持家の当主です。
松尾城
土持家の本拠の松尾城は、今の延岡市にあった山城です。
大友家の侵攻
天正6年(1578年)、大友宗麟は日向に攻め込み、島津方についた土持家を攻めました。親成は松尾城を落とされ、命を落としたと伝えられます。
耳川の戦いへ
大友家はこのあと日向の南へ進み、耳川の戦いで島津家に大敗しました。
評価
親成は、日向北部の古い豪族・土持家の当主として、大友家と島津家のはざまで家を守ろうとした人物です。
このイラストについて
このイラストは、山と城を背に、采配を高く掲げる親成を描いています。
采配を振り上げる姿で、兵を率いて城を守った当主の気迫を表しました。
霧の立つ山々と城は、土持家の本拠だった松尾城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
鎌倉時代から薩摩・大隅・日向の守護を務めた名門。戦国時代の初めには一族の分家どうしが争って勢力が分裂していたが、分家の相州家から出た島津忠良(日新斎)と子の貴久が本家を継ぎ、薩摩の統一を進めた。
島津家の歴史と武将一覧を見る →

-name-300x300.jpg)























































