つだ かずなが
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 紀伊の在地武士・根来衆 |
| 大名家 | 根来衆 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 鉄砲 |
| 衣装・甲冑 | 僧威具足 |
| 武将タイプ | 砲術家 |
津田算長(監物)は戦国時代の紀伊の武将・砲術家である。那賀郡吐前城主とされ、根来寺の子院杉ノ坊と結びついていた。種子島から鉄砲を持ち帰り、鍛冶に作らせて根来衆に広めたと伝わる。津田流砲術の祖とされる。
吐前城主と根来寺
津田算長は通称を監物という。紀伊国那賀郡吐前(はんざき、現在の和歌山市)の城主とされる。生年は不明である。
根来寺は紀伊北部の大寺院で、多くの子院(寺内の小寺)を抱え、僧兵集団「根来衆」を擁した。算長は寺僧ではなく在地の武士であるが、根来寺の子院杉ノ坊と深く結びついていたとされる。岩出市の解説は「杉の坊算長」と記す。
鉄砲の入手と国産化
天文12年(1543)、種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲が伝わった。江戸初期の『鉄炮記』は、紀州根来寺の杉坊が鉄砲一挺を求めたと記す。算長はこの時に種子島へ渡り、鉄砲と火薬の製法を学んだとされる。
辞典類によれば、算長は天文13年に鍛冶の芝辻清右衛門(妙西)に鉄砲を作らせたという。芝辻を根来寺門前の鍛冶とする説と、堺の鍛冶とする説がある。これが本州で最初に作られた鉄砲とされる。
種子島では領主の種子島時尭がポルトガル人から鉄砲二挺を買い求め、家臣に火薬の調合や製法を学ばせた。鉄砲はその後、紀伊の根来や和泉の堺、近江の国友などで作られるようになった。根来はその早い例の一つとされる。
根来鉄砲隊と津田流
算長は鉄砲を根来衆に広め、射撃の技法を工夫した。この技法は津田流砲術として伝わり、算長はその祖とされる。根来衆は鉄砲を多く備えた集団として知られるようになり、永禄から天正にかけて紀伊・和泉の各地で戦った。
没年は永禄10年12月(1568年1月)とする辞典が多い。岩出市は永禄11年12月、69歳で没したとする。伝来の経緯には津田家の伝承に基づく部分があり、細部には諸説がある。
津田流は算長の子孫に受け継がれ、江戸時代にも砲術の流派として続いたとされる。根来衆はのちに織田信長・豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585)に秀吉の紀州攻めで根来寺は焼き討ちにあった。
ゆかりの地
- 根来寺(岩出市):算長と結びつきの深い杉ノ坊があった寺院。根来衆の本拠
- 吐前(和歌山市):算長の居城があったとされる地
参考にした資料
津田算長とは
津田算長は、紀伊の根来寺とつながりの深い武士で、種子島から鉄砲を持ち帰ったと伝えられる人物です。
杉の坊
算長は、根来寺の子院・杉の坊と深く関わったとされ、「根来寺杉の坊算長」と呼ばれることもあります。
種子島と鉄砲
天文12年(1543年)ごろ、種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲が伝わったとされます。算長は、その鉄砲を紀伊に持ち帰ったと伝えられます。
芝辻清右衛門
算長は、紀伊の刀鍛冶・芝辻清右衛門に鉄砲を作らせたとされます。芝辻家は、のちに堺で鉄砲づくりを広めました。
評価
算長は、日本の鉄砲の広まりに大きな役割を果たしたと伝えられる人物です。その伝えは、根来衆の鉄砲の強さの始まりとして語られています。
このイラストについて
このイラストは、鉄砲を作る工房で、火縄銃を手にした算長を描いています。
白髪の年配の顔と、鉄砲を持つ姿で、鉄砲づくりに関わった算長の役割を表しました。
後ろで作業する職人たちは、根来で始まったと伝わる鉄砲づくりをイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
紀伊の根来寺(新義真言宗)の僧兵集団。根来寺は多くの子院と広大な寺領を持ち、僧兵たちは鉄砲をいち早く取り入れたことで知られる。種子島から鉄砲を持ち帰ったとされる津田監物(算長)も根来寺の関係者と伝えられる。
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