まい ひょうご
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 石田家臣 |
| 大名家 | 石田 |
| 家紋 | 丸に剣片喰 |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・武骨 |
石田三成の側近・前線指揮官。関ヶ原の戦いにおいて島左近とともに決死の突撃を敢行した武闘派。
舞兵庫とは
舞兵庫は、石田三成に仕えた武将で、本名は前野忠康といいます。「舞兵庫」は、その通称として知られる名です。
前野家との縁
忠康は、豊臣秀吉の古くからの家臣である前野長康の娘婿になったとされ、前野の姓を名乗りました。
豊臣秀次の家臣
前野長康は、秀吉の甥である豊臣秀次の重臣を務めていました。忠康も、秀次のもとで仕えたとされます。
秀次事件
1595年、秀次は秀吉に謀反を疑われて切腹を命じられました。この事件で、秀次の家臣たちも厳しい処分を受け、前野長康も命を落としました。
三成に仕える
主家を失った忠康は、石田三成に召し抱えられました。三成は、有能な浪人を高い禄で迎え入れたことで知られます。
三成の家臣団
三成の家臣には、島左近・蒲生郷舎(蒲生頼郷)などの名高い武将がいました。忠康も、その中心の一人に数えられます。
関ヶ原の戦いへ
1600年、三成は徳川家康と対立し、西軍を率いて関ヶ原で戦うことになりました。
杭瀬川の戦い
関ヶ原の戦いの前日、大垣城の近くの杭瀬川で、島左近らが東軍の部隊をおびき出して打ち破りました。忠康もこの戦いに加わったとされます。
関ヶ原の本戦
関ヶ原の本戦で、忠康は石田隊の前線で戦い、東軍の黒田長政・細川忠興らの軍を迎え撃ったとされます。
奮戦
石田隊は激しく戦い、東軍の攻撃を何度もはね返しました。
西軍の敗北
しかし、小早川秀秋の寝返りなどによって西軍は総崩れとなりました。
討死
忠康は、この関ヶ原の戦いで討死したと伝えられます。ただし、その最期については諸説があります。
名の由来
「舞兵庫」という名の由来については、はっきりしたことがわかっていません。
三成に殉じた家臣たち
関ヶ原の戦いでは、島左近をはじめ、三成の家臣の多くが最後まで戦い抜きました。忠康もその一人でした。
二人の主君を失う
忠康は、秀次と三成という二人の主君を、いずれも悲劇的な形で失うことになりました。
佐和山城
石田三成の本拠であった佐和山城は、近江の彦根の近くにありました。忠康ら三成の家臣たちは、この城を拠点に仕えました。
前野長康
忠康の義父の前野長康は、豊臣秀吉の古くからの家臣で、但馬の出石の大名となった人物です。
秀次事件の影響
秀次事件では、秀次の家臣や一族の多くが処罰されました。主家を失った家臣たちの中には、三成のように新しい主君に迎えられた者もいました。
忠康の評価
舞兵庫こと前野忠康は、秀次事件を経て石田三成に仕え、関ヶ原の戦いで三成のために戦った武将です。その名は、三成を支えた家臣たちの一人として語り継がれています。
このイラストについて
鉢巻を締めた武将が、長柄の武器を低く構え、戦場と城を背にした姿です。
鉢巻を締め、武器を低く構えた姿は、関ヶ原の戦いで石田隊の前線に立って戦ったと伝えられる忠康をイメージしています。背景の戦場は、西軍の奮戦を表したものです。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
豊臣秀吉の五奉行の一人、石田三成に仕えた家臣たち。三成は近江佐和山城19万石の大名で、関ヶ原の戦いで西軍を組織した。
石田家の歴史と武将一覧を見る →


























