名古屋山三郎 | 蒲生氏郷の小姓、のち森忠政に仕えたかぶき者

名古屋山三郎のイラスト(イメージ)

なごや さんざぶろう

地域近畿
所属勢力・属性蒲生家臣→浪人→森家臣
大名家蒲生家・森家
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑派手な小袖に伊達な装い
武将タイプ武勇・伊達者

名古屋山三郎は、安土桃山時代から江戸時代のはじめに生きた武士である。若くして蒲生氏郷の小姓となり、奥州の戦いで一番槍の手柄を立てた。美男の伊達者として名高く、のちに出雲阿国と結びつけた伝説が生まれた。

目次

織田家につながる生まれ

生年ははっきりしない。父は名古屋因幡守高久(敦順とも)で、織田信長に仕えたとされる。豊臣家の家臣とする辞典もある。母は信長の縁者で、織田刑部大輔の娘とも、信長の姪にあたる養雲院ともいわれる。

父の因幡守は、加賀藩に仕えた名越家の祖とされる。山三郎の姉妹は豊臣秀長の嫡子に嫁ぎ、死別したのち森忠政の妻となった。こうした縁が、のちに山三郎が森家に仕えるきっかけになったと考えられる。

蒲生氏郷の小姓として一番槍

山三郎は蒲生氏郷に児小姓として仕えた。天正18年(1590)、氏郷は奥州で起きた大崎・葛西一揆の鎮圧に向かい、名生城を攻めた。このとき15歳の山三郎は一番槍の手柄を立てた。

その活躍は「名古屋山三は一の槍」とはやし歌にうたわれたと伝わる。美少年として評判が高く、豊臣秀次の小姓だった不破万作と並べて語られることもあった。氏郷が亡くなったあとは、浪人になったと伝えられる。

森家に仕え、院庄で討たれる

やがて山三郎は、美作(岡山県)を治めた森忠政に仕え、名を九右衛門と改めた。慶長8年(1603)、森家が院庄で城の普請を進めていたとき、普請を担当していた同僚の井戸宇右衛門と争いになった。山三郎はこの刃傷沙汰で命を落とした。

亡くなった日は4月10日とも5月3日ともいわれ、年齢も28歳とも32歳とも記録が分かれる。院庄には、二人の墓に植えた松が互いに栄えたり衰えたりしたという「にらみ合いの松」の言い伝えが残る。

阿国歌舞伎と山三郎の伝説

山三郎は遊芸に通じたかぶき者として、死後に伝説の人物となった。出雲阿国の恋人で、阿国の歌舞伎を手伝ったという話が広まり、古浄瑠璃や芝居にも取り上げられた。

ただし、歌舞伎の成立に山三郎が直接かかわったことは史料で確かめられていない。伝説の部分と、蒲生家・森家に仕えた武士としての姿は分けて考える必要がある。

ゆかりの地

  • にらみ合いの松(岡山県津山市院庄):山三郎と井戸宇右衛門の墓にまつわる松の言い伝えが残る地
  • 名生城跡(宮城県大崎市):天正18年(1590)、山三郎が一番槍を立てたとされる城

参考にした資料

名古屋山三郎とは

名古屋山三郎は、蒲生氏郷に仕えた武士で、美男子として知られた人物です。

美男子の評判

山三郎は、天下一の美男とうたわれ、その姿は多くの物語や芝居に取り上げられました。

蒲生氏郷のもとで

山三郎は、若いころ蒲生氏郷の小姓として仕え、戦場で一番槍の手柄を立てたと伝えられます。

出雲阿国との伝説

山三郎は、歌舞伎の始まりとされる出雲阿国と結びつけて語られることがあります。ただし、これは後の時代の伝説によるところが大きいとされます。

評価

山三郎は、美男子として、また歌舞伎の始まりにまつわる伝説の人物として、今も語り継がれている武士です。

このイラストについて

このイラストは、桜の咲く町を背に立つ山三郎を描いています。

華やかな着物と整った顔立ちで、天下一の美男とうたわれた山三郎の姿を表しました。

桜と町並みは、阿国歌舞伎が生まれた京の町をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

蒲生家

近江の日野城を本拠とした家。蒲生氏郷は人質として織田信長のもとで育ち、才能を見込まれて信長の娘を妻に迎えた。

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主家

家臣団

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