たねがしま ひさとき
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 種子島氏・島津系 |
| 大名家 | 種子島氏 |
| 家紋 | 丸に三ツ星 |
| 主武器 | 種子島(鉄砲)・太刀 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 鉄砲隊・文武両道 |
種子島時堯の孫。島津義弘に従い朝鮮の役に出陣。種子島鉄砲隊を率いて泗川の戦いなどで敵軍を粉砕。
種子島の当主
久時は、九州南方の島・種子島を治めた種子島家の当主です。
鉄砲伝来の島
種子島は、1543年に日本へ鉄砲が伝わった島として知られます。そのとき島を治めていたのが、種子島時堯でした。
時堯の血を引く
久時は、鉄砲伝来に深く関わった時堯の血を引く当主とされます。
島津家の傘下
種子島家は、戦国時代には薩摩の島津家に従っていました。
鉄砲の産地
鉄砲が伝わった後、種子島では鉄砲づくりが行われ、「種子島」は鉄砲そのものを指す言葉にもなりました。
朝鮮出兵
久時は、島津義弘に従って朝鮮出兵に加わりました。
鉄砲隊を率いる
久時は、種子島の鉄砲隊を率いて戦ったとされます。
泗川の戦い
1598年、島津軍は朝鮮の泗川で明・朝鮮の大軍と戦い、これを破りました。久時も、この戦いに加わったとされます。
島津家の鉄砲
島津家は、早くから鉄砲を取り入れた大名として知られます。種子島家は、その中でも特に鉄砲と深いつながりを持つ家でした。
種子島家の役割
種子島家は、島津家の家臣として、薩摩藩の中で特別な家として扱われました。
最期
久時の晩年や最期の詳しいことについては、はっきりしない部分もあります。
種子島家のその後
種子島家は、江戸時代を通じて種子島を治め、薩摩藩の重臣の家として続きました。
種子島開発総合センター
種子島には、鉄砲伝来の歴史を伝える資料館があり、伝来当時の鉄砲などが展示されています。
島と海
種子島は、海を通じて九州や琉球、東アジアと結ばれた島でした。
ポルトガル人の漂着
1543年、種子島の南端に、ポルトガル人を乗せた船が漂着しました。時堯は、彼らが持っていた鉄砲を高い値で買い求めたと伝えられます。
八板金兵衛
時堯は、刀鍛冶の八板金兵衛に鉄砲をまねてつくらせました。こうして、日本で初めての国産の鉄砲が生まれたとされます。
鉄砲の広がり
種子島から伝わった鉄砲は、堺や根来、国友などに広まり、戦国時代の戦い方を大きく変えていきました。
鉄砲館
種子島には、鉄砲伝来の歴史を伝える資料館があり、伝来当時の鉄砲などが展示されています。
種子島と宇宙
現在の種子島には宇宙センターがあり、ロケットの打ち上げで知られています。
久時の評価
久時は、鉄砲伝来の島・種子島の当主として、島津家に従い、朝鮮出兵で鉄砲隊を率いたと伝えられる人物です。種子島家と鉄砲の深い結びつきを伝える存在です。
このイラストについて
兜をかぶった武将が采配を高く掲げ、鉄砲を構える兵たちと海辺の山城を背にした姿です。
采配を掲げる姿と鉄砲を構える兵たちは、種子島の鉄砲隊を率いたと伝えられる久時をイメージしています。背景の海と島々は、鉄砲伝来の島・種子島を思わせるものです。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
大隅の種子島を治めた家。1543年、種子島に漂着したポルトガル人から、当主の種子島時堯が鉄砲を買い求め、家臣に製法を学ばせたことで知られる。ここから鉄砲が日本中に広まり、合戦のあり方を大きく変えていった。
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