やすだ よしもと
| 地域 | 甲信越・東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 上杉家臣 |
| 大名家 | 上杉 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 黒漆具足 |
| 武将タイプ | 奉行・武将 |
安田能元は上杉景勝の重臣である。兄顕元の死後に越後安田氏を継ぎ、会津時代には奉行として領国経営にあたった。慶長5年には白河口の防衛に配置されたとされる。米沢移封後も家中法度の制定や城下の整備に関わった。
越後安田氏と家督相続
安田能元は弘治3年(1557)生まれとされる。幼名は弥九郎、官途は上総介である。父は安田景元、兄は安田顕元である。
越後安田氏は刈羽郡安田(現在の柏崎市)を本拠とした。鎌倉幕府の重臣大江広元の子孫で、越後毛利氏から分かれた一族である。阿賀野川流域の揚北衆の安田氏とは別の家である。
謙信没後の家督争いである御館の乱で、顕元と能元は上杉景勝に味方した。乱の後、顕元は自害した。能元が家督を継ぎ、天正8年(1580)に本領を安堵された。
御館の乱は、天正6年(1578)に謙信が没したのち、養子の景勝と景虎が家督を争った内乱である。景勝が勝ち、上杉家の当主となった。
会津時代の奉行
慶長3年(1598)、上杉氏は会津へ移った。能元は会津で奉行の一人となり、領国の政務にあたったとされる。浅香城や二本松城の守備も命じられた。
慶長5年(1600)、徳川家康の会津攻めが迫ると、能元は白河口の防衛に配置され、小峰城を守ったとされる。家康の軍勢が西へ引き返したため、白河口での決戦は起きなかった。
会津120万石への加増は豊臣秀吉の命によるもので、上杉氏は東北の伊達氏・最上氏への押さえを担った。
米沢での晩年
関ヶ原の戦いの後、上杉氏は米沢30万石に減封された。能元は直江兼続らとともに米沢の城下町の町割りに関わったとされる。また岩井信能・春日元忠らと家中法度を定めた。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣では上杉軍に従い、鴫野の戦いで戦ったと伝わる。また、戦いで足を負傷して「跛上総」と呼ばれたという逸話がある。元和8年(1622)6月25日、66歳で没した。
ゆかりの地
- 安田城址(柏崎市):越後安田氏の本拠
- 小峰城跡(白河市):慶長5年に能元が守備したとされる城














































