本願寺顕如 | 石山合戦で信長と10年戦った本願寺の門主。大坂退去と西本願寺のはじまり

本願寺顕如のイラスト(イメージ)

ほんがんじ けんにょ

地域近畿(摂津・大坂)
所属勢力・属性浄土真宗本願寺(門主)
大名家本願寺(大谷家)
家紋下り藤
主武器―(各地の門徒を動員)
衣装・甲冑法衣・袈裟
武将タイプ宗教勢力の指導者

本願寺顕如(ほんがんじ けんにょ)は、浄土真宗本願寺の第11世の門主である。天文12年(1543年)に生まれ、文禄元年(1592年)に亡くなった。大坂の石山本願寺を本拠とし、全国の門徒を動かす大きな力を持っていた。元亀元年(1570年)から約10年にわたって織田信長と戦い(石山合戦)、最後は朝廷の仲立ちで和睦して大坂を退いた。

3行でわかる本願寺顕如
  • 浄土真宗本願寺の第11世門主。大坂の石山本願寺を拠点に、全国の門徒を率いた
  • 元亀元年(1570年)から信長と戦い、長島や越前の一向一揆、毛利家と結んで抵抗した(石山合戦)
  • 天正8年(1580年)に和睦して大坂を退き、のちに秀吉から京都に寺地を与えられた(今の西本願寺のはじまり)
目次

石山本願寺と門徒の力

顕如が率いた本願寺は、大坂の上町台地の先に大きな寺と寺内町を築いていた。各地の門徒は「一向一揆」と呼ばれる強い力を持ち、加賀のように武士にかわって国を治める地域もあった。顕如の妻は公家の三条家の娘で、武田信玄の妻の妹にあたる。

信長との10年戦争

元亀元年(1570年)、顕如は信長に対して兵を挙げた。浅井・朝倉や武田、毛利と結び、長島や越前の一向一揆も各地で信長と戦った。

本願寺には毛利家の水軍が海から兵糧を運びこみ、天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは織田水軍を破った。しかし天正6年(1578年)、九鬼嘉隆の大船に毛利水軍が敗れると、海の道は断たれた(「第二次木津川口の戦いをわかりやすく解説」参照)。

大坂退去と西本願寺

天正8年(1580年)、顕如は朝廷の仲立ちで信長と和睦し、紀伊の鷺森へ移った。このとき長男の教如は退去に反対して大坂に残り、親子は対立した。この対立は、のちに本願寺が東西に分かれるもとになったともいわれる。

信長の死後、顕如は豊臣秀吉と良い関係を築き、天正19年(1591年)に京都の堀川七条に寺地を与えられた。これが今の西本願寺のはじまりである。石山本願寺の跡地には、秀吉が大坂城を築いた(「大坂城の築城をわかりやすく解説」参照)。

本願寺顕如をめぐる人物

ゆかりの地

  • 西本願寺(本願寺)(京都市下京区):秀吉から与えられた寺地に建てられた本願寺
  • 大坂城跡(石山本願寺跡)(大阪市中央区):石山本願寺があったとされる地
  • 鷺森別院(和歌山県和歌山市):大坂退去後に顕如が移った寺
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