わきさか やすのぶ
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 脇坂一門(美濃1万石の大名) |
| 大名家 | 脇坂 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 美濃1万石の大名 |
脇坂安治の三男。父とともに徳川家康に仕え、美濃国内で1万石の大名となった。寛永9年(1632)、備中松山藩池田家の刃傷事件に巻き込まれて所領を没収された。
脇坂安治の三男
脇坂安信は、賤ヶ岳の七本槍の一人として知られる脇坂安治の三男である。通称は甚九郎。生年はわかっていない。
父の安治は近江の出身で、豊臣秀吉に仕えて淡路洲本3万石を領した。文禄・慶長の役では水軍の将として朝鮮に渡っている。関ヶ原の戦いでは徳川方に通じ、慶長14年(1609)に伊予大洲5万3000石に移った。
安信は父とともに徳川家康に仕え、慶長年間に美濃国内で1万石を与えられて大名となった。従五位下・主水正に任じられたとされる。大坂の陣では冬・夏とも酒井忠世の指揮下で従軍したと伝わる。
寛永9年の刃傷事件
安信の運命を変えたのは、寛永9年(1632)の事件である。備中松山藩主池田長幸の家督をめぐる集まりの席で、安信の弟で兄安元の養子となっていた脇坂安経が、池田長頼に斬られた。安信は長頼を追って斬り合い、傷を負ったとされる。
この備中松山藩池田家の刃傷事件に巻き込まれ、安信は所領を没収された。寛永14年(1637)4月1日に死去した。京都の妙心寺の塔頭に葬られたと伝わる。
その後の脇坂家
脇坂家の本家は兄の安元が継ぎ、のちに信濃飯田へ移った。寛文12年(1672)には脇坂安政が飯田から播磨龍野に入り、以後、龍野藩主として明治初年まで続いた。
ゆかりの地
- 龍野城(たつの市):寛文12年(1672)から明治初年まで脇坂家が藩主を務めた
- 洲本(洲本市):父・安治が3万石で領した淡路の拠点
参考にした資料
父・脇坂安治
安信の父・安治は、賤ヶ岳の七本槍の一人として知られる武将です。のちに淡路の洲本を治め、豊臣家の水軍を率いました。
関ヶ原の安治
関ヶ原の戦いで、安治は西軍として布陣しましたが、小早川秀秋の寝返りに合わせて東軍に付きました。戦の後も所領を保ち、伊予の大洲に移りました。
兄・脇坂安元
安治の跡を継いだのは、安信の兄の安元でした。安元はのちに信濃の飯田に移り、和歌などの文化にも親しんだ大名として知られます。
江戸初期の大名家
江戸時代の初めは、大名や旗本の家の中での争いや、家臣どうしの事件がたびたび起きた時代でした。幕府は、そうした事件に厳しい処分で臨みました。
評価
安信は、名高い父と兄をもつ脇坂家の一人として生まれ、江戸時代の初めの厳しい武家社会を生きた人物です。その身に起きた事件は、当時の大名家の空気を伝えています。
このイラストについて
このイラストは、港に船が浮かぶ水辺で、槍を手に立つ安信を描いています。
高い兜と黒い甲冑で、水軍を率いた脇坂家の武将らしい姿を表しました。
背後の大きな船と港は、父・安治が率いた脇坂家の水軍と、淡路や伊予の海をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
近江の脇坂村の出身とされる脇坂安治に始まる家。安治は羽柴秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで「七本槍」の一人に数えられた。のちに淡路洲本を与えられ、水軍を率いて朝鮮出兵にも加わった。
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