西園寺公広 | 伊予黒瀬城主、伊予西園寺氏の最後の当主

西園寺公広の肖像

さいおんじ きんひろ

地域伊予
所属勢力・属性伊予西園寺氏
大名家西園寺家
家紋―
主武器刀
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ大名(もと僧)

西園寺公広は、伊予国宇和郡の黒瀬城を本拠とした戦国時代の武将である。もとは僧であったが、永禄8年(1565)に還俗して家を継いだ。長宗我部元親、ついで豊臣秀吉の軍に降り、天正15年(1587)、新しい領主の戸田勝隆に殺されて伊予西園寺家は滅んだ。

目次

伊予西園寺氏とは

西園寺氏は、京都の公家として知られる家である。伊予の宇和郡には、かつて宇和荘という荘園があり、伊予の西園寺氏はその荘園領主の流れをくむと伝えられる。

戦国時代の伊予には、国全体をまとめる大名が現れず、各地に有力な領主が並び立っていた。東予では石川氏が高峠城を、南予では宇都宮氏が地蔵岳城を拠点とした。そして西園寺氏は、黒瀬城(愛媛県西予市宇和町)を拠点に勢力を持っていた。

還俗して黒瀬城主となる

公広の生まれた年ははっきりしない。はじめは仏門に入っていたが、永禄8年(1565)に還俗し、黒瀬城主となった。僧から武将へと立場を変え、西園寺家をひきいることになったのである。

公広が城主として過ごしたのは、伊予の外から大きな勢力が押し寄せてくる時代であった。とくに土佐の長宗我部氏は、東予の金子氏と手を結んだうえで、南予への攻撃をくり返した。

長宗我部氏と秀吉への降伏

土佐を統一した長宗我部元親は、やがて伊予へも攻め込んだ。天正12年(1584)、公広は元親の攻撃を受けた。

翌天正13年(1585)、豊臣秀吉は小早川隆景を先陣として四国へ軍を送った。隆景は伊予に上陸して国中をおさえ、公広も秀吉の軍に降伏した。戦いのあと、伊予国は隆景に与えられた。こうして公広は、独立した領主としての立場を失った。

戸田勝隆による謀殺と西園寺家の滅亡

天正15年(1587)、伊予では福島正則が湯築城に、秀吉の家臣・戸田勝隆が大津城(のちの大洲城)に入った。宇和郡は勝隆の領地となった。勝隆は、宇和郡のもとの領主である公広を謀殺した。天正15年12月11日のことで、西暦では1588年にあたる。

勝隆はさらに土地の土豪たちをきびしくおさえつけ、太閤検地を強引に進めた。これを「戸田騒動」という。公広の死によって、戦国時代から続いた伊予西園寺家は滅亡した。その勝隆も、のちに朝鮮出兵にしたがい、文禄3年(1594)10月、帰国の途中で病死している。

ゆかりの地

  • 黒瀬城跡(愛媛県西予市宇和町):公広が城主を務めた伊予西園寺氏の本拠

参考にした資料

西園寺公広とは

西園寺公広は、伊予の西園寺家の最後の当主です。もとは僧でしたが、還俗して家を継ぎました。

黒瀬城

公広の本拠の黒瀬城は、今の西予市にあった山城です。宇和の平野を見下ろす場所にありました。

西園寺十五将

伊予の西園寺家には、配下の有力な武将たちがいて、のちに「西園寺十五将」と呼ばれました。

戸田勝隆

秀吉の四国平定ののち伊予に入った戸田勝隆は、厳しい支配を行ったことで知られます。公広は、その勝隆のもとで命を落としたと伝えられます。

評価

公広は、京の名門・西園寺家の流れをくむ伊予の当主として、長宗我部家や秀吉の勢力の間で家を守ろうとした人物です。その最期とともに、伊予西園寺家は終わりを迎えました。

このイラストについて

このイラストは、山城と旗を背に、白いひげの公広を描いています。

年配の落ち着いた顔と甲冑姿で、伊予の西園寺家を率いた最後の当主の風格を表しました。

山あいの城と陣は、公広の本拠だった黒瀬城をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

西園寺家

伊予の南部、宇和郡を本拠とした家で、公家の西園寺氏の一族。黒瀬城などを拠点とした。

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家臣団

土居清良の肖像法華津前延の肖像
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