ほりお よしはる
| 地域 | 東海・中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣・徳川系 |
| 大名家 | 豊臣 |
| 家紋 | 分銅 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 「仏の吉晴」・温厚実直 |
豊臣三中老の一人。温厚な人柄で争いの仲裁に努め松江城および松江藩の基礎を築く。
- 天文12年(1543年)、尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県大口町)に生まれる。通称は茂助
- 信長・秀吉に仕え、佐和山城主を経て豊臣秀次の宿老、小田原攻めの後は浜松12万石の城主。秀吉の晩年に三中老の一人とされた
- 関ヶ原後、子の忠氏が出雲・隠岐24万石を得る。忠氏の早世後は孫の忠晴を後見して松江城(国宝)を築き、完成直後の慶長16年(1611年)に没
豊臣三中老・堀尾吉晴
堀尾吉晴(ほりお よしはる)は、天下人・豊臣秀吉に仕えて出世した武将で、豊臣政権の要職「三中老」の一人に数えられた重臣です。「仏の茂助」と呼ばれた温厚篤実な人柄で知られました。
秀吉子飼いの武将
堀尾吉晴は、秀吉がまだ身を興す前から仕えた子飼いの武将で、数々の合戦で武功を挙げて出世しました。温厚な人柄でありながら、戦場では確かな働きを見せる、信頼の厚い家臣でした。
争いの仲裁役
堀尾吉晴は、その温厚篤実な人柄から、しばしば武将たちの争いの仲裁に努めたと伝えられます。荒々しい武将の多い豊臣政権にあって、こうした調整役の存在は、組織をまとめるうえで貴重なものでした。三中老という役職も、五大老と五奉行の間を取り持つものでした。
松江城と松江藩
関ヶ原の戦いののち、堀尾氏は出雲・隠岐を与えられ、堀尾吉晴は子とともに松江城の築城と城下町の整備に取りかかりました。現存天守で名高い松江城と、松江藩の基礎は、この吉晴の時代に築かれたのです。堀尾吉晴の生涯は、温厚な人柄で豊臣政権を支え、松江の礎を築いた三中老の姿を今に伝えています。
秀次の宿老から浜松城主へ
天正13年(1585年)、吉晴は豊臣秀次に付けられた宿老の一人となった。同じく秀次を支えたのが、中村一氏、山内一豊、田中吉政、一柳直末らである。
天正18年(1590年)の小田原攻めの後、家康が関東へ移ると、吉晴は浜松12万石の城主となった。約10年の在城のあいだに、今も見られる浜松城の石垣を築き、天守台に天守を建てたと考えられている。
池鯉鮒の刃傷と関ヶ原
慶長4年(1599年)、吉晴は家督を子の堀尾忠氏に譲り、越前府中5万石を隠居料として受けた。翌慶長5年(1600年)7月、三河の池鯉鮒(知立)で開かれた酒宴の席で加賀井重望に斬りつけられ、深手を負いながらも返り討ちにしたという(池鯉鮒事件)。
関ヶ原では東軍につき、戦後、忠氏が出雲・隠岐24万石を与えられて月山富田城に入った。
孫を後見して松江城を築く
慶長9年(1604年)に忠氏が亡くなると、吉晴は幼い孫・忠晴を後見して藩政を担った。山城の月山富田城では城下町を広げにくいとして、宍道湖のほとりに新しい城を築くことを決め、慶長12年(1607年)に着工、慶長16年(1611年)正月までに松江城を完成させた。吉晴はその年の6月に没している。
松江城の天守は、平成27年(2015年)に築城時期を示す祈祷札が再発見されたことが決め手となり、国宝に指定された。石垣工事の際に大方様(吉晴の妻)が石一つごとに餅を配ったなど、築城にまつわる伝承も残る。堀尾家は寛永10年(1633年)、忠晴に跡継ぎがなく断絶した。
堀尾吉晴をめぐる人物
ゆかりの地
- 松江城(島根県松江市):吉晴が築いた城。天守は国宝で、現存12天守の一つ
- 浜松城(静岡県浜松市):約10年在城し、石垣と天守を築いたと考えられている
- 月山富田城跡(島根県安来市):松江に移るまでの居城
- 春光院(京都市右京区・妙心寺塔頭):墓所の一つ。高野山奥之院にも大きな五輪塔があり、生まれ故郷の大口町の桂林寺には供養塔がある
この人物をもっと知る本
- 【人物事典】黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』(戎光祥出版):「堀尾吉晴」の章を収録
- 【図録】松江歴史館『戦国の世を馳せた武将 堀尾吉晴』:松江歴史館の展覧会図録。館のショップや郵送で入手できる













































