栗山利安 | 通称善助。黒田官兵衛の最側近として有岡城救出や九州平定などあらゆる戦いを支えた名参謀

くりやま としやす

地域九州
所属勢力・属性黒田家臣
大名家黒田
家紋藤巴
主武器太刀・采配
衣装・甲冑重臣具足
武将タイプ老練・忠義
目次

栗山利安とは—黒田家を支えた筆頭家老

栗山利安(くりやま としやす)は、通称を善助(ぜんすけ)といい、稀代の軍師として知られる黒田官兵衛(黒田孝高、後の如水)に若くから仕え、その最側近として黒田家を支え続けた武将として語り継がれています。勇猛と智略で選び抜かれた「黒田二十四騎」、さらにその中でも屈指の重臣とされる「黒田八虎」に数えられ、主家が播磨の一土豪から筑前五十二万石の大名へと駆け上がる激動の時代を、家老格として最前線で見つめ支えた人物といわれます。

生い立ちと黒田官兵衛との出会い

利安は1550年に播磨国で生まれたと伝えられ、当時まだ小寺氏の家臣にすぎなかった若き日の黒田官兵衛に、家中でも早い時期から近侍として仕えるようになったといわれます。主従というよりも苦楽を分かち合う同志のような結びつきであったとされ、官兵衛が織田信長・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)へ接近して播磨の情勢に深く関わっていく過程で、善助はその手足となって働き、厚い信頼を勝ち得ていったと伝えられます。

黒田二十四騎・黒田八虎の一員として

黒田家には、槍の名手として名槍「日本号」の逸話で知られる母里友信(母里太兵衛)や、剛勇無双とうたわれた後藤基次(後藤又兵衛)、思慮深い将として重んじられた井上之房ら、個性豊かな家臣が数多く仕えていました。そうした綺羅星のごとき武将たちの中にあって、栗山利安は派手な武名よりもむしろ実直な忠勤と統率力で頭角をあらわし、黒田二十四騎・黒田八虎の一角として、家中をまとめる要の立場を担っていったといわれます。

有岡城幽閉事件と善助の忠節

1578年、摂津の荒木村重が信長に反旗をひるがえすと、官兵衛は説得のために単身で有岡城(伊丹城)へ乗り込み、そのまま捕らえられて一年近くもの長きにわたり土牢に幽閉されてしまいました。消息を絶った主君を裏切り者と疑う声が織田方に広がるなか、善助は官兵衛の生存と忠義を信じて案じ続け、ひそかにその身を気づかい支えようとしたと伝わり、この一件は主従の固い絆を示す見どころとして語り継がれています。

救出や差し入れにまつわる細部については後世の脚色も含むとみられ、あくまで「と伝えられる」逸話として受け止めるのがふさわしいものの、幽閉から解き放たれた官兵衛が善助ら旧臣の変わらぬ忠節に厚く報いたことは、黒田家のその後を物語るうえで欠かせない挿話とされています。

九州平定と黒田家の飛躍

有岡の苦難を乗り越えた黒田家は、秀吉の天下取りに軍師・官兵衛の力が不可欠となるにつれて重きを増し、1587年の九州平定では、島津氏をはじめとする勢力との戦いに黒田勢として身を投じていきました。この功により官兵衛が豊前に所領を得ると、栗山利安もまた家中の宿老として領国経営や軍事の中枢を担い、播磨の小勢力にすぎなかった主家が西国の有力大名へと成長していく歩みを、内側から支え続けたといわれます。

豊前中津から関ヶ原へ

黒田家は豊前中津を拠点として国づくりを進め、官兵衛が家督を嫡男・黒田長政に譲ったのちも、善助は二代にわたる主君を支える老臣として重んじられ、若い長政の後見役のような役割も果たしたと伝えられます。1600年の関ヶ原の戦いに際して長政が徳川家康方につくと、黒田勢は東軍の一翼として奮戦し、その働きは戦後の大幅な加増につながっていくのですが、その陰には利安ら宿老たちの周到な支えがあったといわれます。

筑前福岡五十二万石の家老として

関ヶ原の功により、黒田長政は筑前一国およそ五十二万石を与えられて福岡藩の初代藩主となり、栗山利安はその筆頭家老格として、新たな大領国の統治を担う中心的な立場に据えられました。善助は筑前の要地に構えた城とまとまった知行を任され、藩政の確立や家臣団の統制に力を尽くしたと伝えられ、一介の近侍から大名家を代表する重臣へと歩んだその生涯は、まさに黒田家の隆盛そのものを映す軌跡といえます。

同僚たち—母里太兵衛・後藤又兵衛・井上之房

黒田家を支えた家臣団は、それぞれに強烈な個性を持つ者ぞろいで、酒席で名槍「日本号」を呑み取ったと伝わる母里友信や、後に主家を出奔して大坂の陣で華々しく散った後藤又兵衛など、逸話に事欠かない顔ぶれでした。豪傑たちがときにぶつかり合うなかで、栗山利安は井上之房らとともに家中の重石として全体を束ねる役回りを担ったとされ、その調整役・まとめ役としての存在感こそが、善助という武将の真骨頂であったといわれます。

子・栗山大膳と晩年

利安は1631年ごろに世を去ったと伝えられますが、その跡を継いだ子の栗山大膳(利章)は、翌年に藩主・黒田忠之との対立が幕府を巻き込む大騒動へと発展した「黒田騒動」、いわゆる栗山大膳事件の当事者として、後世に広く名を知られることになります。この御家騒動は父・利安の死後に起きた出来事であり、忠勤一途に主家を支え続けた善助の生涯とは切り離して捉えるべきものですが、栗山家が黒田藩政の中枢に深く関わり続けたことを象徴する後日談として、あわせて語られることが少なくありません。

栗山利安が今に伝えるもの

派手な武功や逸話で語られることの多い黒田武士の中にあって、栗山利安の名は決して華やかではありませんが、有岡城に囚われた主君を案じ続けた忠節と、播磨から筑前へと至る主家の激動を静かに支え抜いた実直さにこそ、この武将の値打ちがあるといえます。史料が限られるがゆえに人物像には不明な点も多く残りますが、名軍師・黒田官兵衛の影を支え、二十四騎・八虎の一員として黒田家の礎を築いた善助の歩みは、時代を動かした群像を立体的に照らし出す、確かな一筋の光として今に伝えられています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次