いわなり ともみち
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 三好家臣 |
| 大名家 | 三好 |
| 家紋 | 丸に違い鷹の羽 |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・不屈 |
岩成友通とは
岩成友通(いわなり ともみち)は、戦国時代の畿内で強大な勢力を誇った三好氏に仕えた武将であり、主君である三好長慶の没後には三好長逸・三好宗渭とともに三好三人衆の一角を占め、時に将軍家をもしのぐほどの権勢を畿内一円にふるった人物として広く知られている。三好三人衆のなかで長逸と宗渭がいずれも三好一族の血縁に連なる者であったのに対し、友通ひとりは一族の出ではなく、みずからの武勇と実務の力量のみを頼りとして政権の中枢にまで駆けあがった、まことに異色の存在であったと一般に伝えられている。
出自と三好家への出仕
岩成友通の出自については確かな史料がきわめて乏しく、その生年や前半生の事跡はほとんど明らかになっておらず、いつ、いかなる経緯によって三好家に仕えるようになったのかも判然としないというのが、今日における研究の実情である。一説には山城国の岩成という地名にちなむ在地の武士の出身とも、あるいは石成とも表記される家の出とも語られているが、そのいずれもが確たる裏づけを欠いており、後世の推測の域を出るものではないという点には十分な留意が必要である。
ただし、血縁によらぬ立身出世というきわめて際立った後年の経歴が、かえってその出自をめぐる後世の人々の関心を高め、確たる記録の空白をさまざまな伝承や逸話によって埋めさせてきたという面も、また大いに否定しがたいところである。
長慶政権下での台頭
友通が歴史の表舞台にはっきりと姿をあらわすのは、三好長慶が畿内から阿波にかけて広く覇を唱えていた時期のことであり、長慶の広大な家臣団のなかにあって、軍事と行政の両面にわたり着実に頭角をあらわしていった有力な武将であると考えられている。血縁や譜代の家格に頼ることのできなかった友通は、ひとえに戦場での働きと実務の手腕によって主君の信任を勝ち得るほかなく、そうした実力本位の人材登用が可能であった点にこそ、当時の三好政権が備えていた開明的な性格がよくうかがえるのである。
三好三人衆の結成
1564年に三好長慶が病によって没すると、家督は幼い養嗣子の三好義継が継いだものの、政権の実権はしだいに有力な家臣たちの合議へと移り、そのなかで友通・長逸・宗渭の三名が三好三人衆と呼ばれる中核集団を形成するにいたった。とりわけ主君を失ってにわかに求心力を欠いた三好家中にあっては、有力者の合議によって政権を維持しようとするこの体制は、動乱のただなかにある広大な畿内を統べるうえで、一定の現実的な合理性を備えたものであったといえるだろう。
三人衆は互いに結束して幕府の政にも積極的に介入し、同じく実力者であった松永久秀と協調あるいは対立を繰り返しながら畿内の政局を主導したが、友通はその一員として、外交や軍事にかかわる折衝に深く関与していったものと考えられている。
永禄の変への関与
1565年、三好三人衆は松永久秀の子である久通らとともに多くの軍勢を率いて京都の将軍御所を取り囲み、第十三代将軍である足利義輝を討ち取るという前代未聞の挙に及んだが、この将軍弑逆の事件は一般に永禄の変と呼ばれている。友通がこの襲撃においてどれほど主導的な役割を果たしたのかを直接に物語る史料は乏しいものの、三好三人衆の一員として計画の中心近くにあったことはほぼ疑いなく、事件の後には畿内政治の行方を大きく左右する立場に立つこととなった。
松永久秀との関係
松永久秀は三好長慶の右腕として台頭したまさに稀代の実力者であり、長慶の死後にはしばしば三好三人衆と利害を共有したものの、やがて畿内の主導権をめぐって激しく対立するにいたり、その地はたちまち両勢力の抗争の舞台と化していった。友通は三好三人衆の側にあって久秀と干戈を交える一方、時々刻々と移りゆく情勢に応じては和睦や連携へと転じることもあり、両者の関係は固定した敵味方の図式では到底捉えきれない、きわめて流動的なものであったと理解されている。
信長の上洛と抵抗
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて大軍とともに上洛を果たすと、畿内における政治的な力関係はにわかに一変し、三好三人衆は新たに台頭したこの強大な勢力の前に各地で敗退を重ねて、しだいに劣勢へと追い込まれていくこととなった。それでも友通は容易には屈しようとはせず、信長やその支援を受ける将軍足利義昭の勢力に対してなおも粘り強く抵抗を続け、機会をうかがっては反攻を試みるなど、依然として畿内の一角に無視しがたい存在感を保ち続けていたのである。
淀城での最期
友通は山城国の淀城に拠って信長方への抵抗の姿勢を頑として崩そうとしなかったが、1573年、細川藤孝らの率いる軍勢に攻め立てられ、激しい攻防の末についに堅城は落ち、友通もまたその戦いのさなかに討ち死にを遂げたと伝えられている。淀城は複数の河川が合流して水運を扼する交通の要衝の地に位置しており、水に囲まれたその堅固な地形は、次第に孤立を深めながらもなお抗戦を続けようとする友通にとって、最後の拠りどころとして格好の場であったと考えられている。
実力のみを頼みとして三好政権の中枢にまで昇りつめた一人の武将が、最後まで旧主家の勢力を背負って戦い抜き、みずからの居城とともに果てたその最期には、下剋上の時代を生きた者の一つの典型が色濃く映し出されているといえよう。
人物像と評価
岩成友通は、名門の血筋によらずもっぱら戦場と実務における働きのみによって身を立てた点において、下剋上の風潮を鮮やかに体現する武将として評価されることが多く、実力主義の時代を象徴する人物の一人にしばしば数えられている。その生涯には史料の制約からいまなお不明な部分も少なくないが、三好三人衆の一角として畿内の政局を確かに動かした事績は疑いなく、近年では大河ドラマなどを通じて三好政権への関心が高まるなか、あらためて光が当てられつつある。

