きもつき よしかね
| 地域 | 九州(大隅) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 肝付氏 |
| 大名家 | 肝付家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍・弓 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 国衆の当主 |
肝付良兼は、大隅国高山(鹿児島県肝付町)を本拠とした肝付氏の当主である。父の兼続とともに日向の伊東氏と結び、島津氏と激しく争った。元亀2年(1571)に若くして亡くなり、その後肝付氏は島津氏に下った。
肝付氏の起こり
肝付氏は、伴氏の流れをくむ一族である。島津荘を開いた平季基の娘婿・伴兼貞の子孫が、荘の役人として南九州に広がった。そのうち兼俊が肝付郡の弁済使として高山に入り、肝付氏を名のったとされる。
肝付氏は高山を本拠に大隅の有力な国衆として力をのばした。良兼は16代・肝付兼続の嫡男として生まれた。母は島津忠良の娘であり、肝付氏はもともと島津氏と縁の深い家であった。
島津氏との争い
天文22年(1553)、兼続は家督を良兼に譲った。しかしその後も、実権は兼続が握り続けたとされる。このころから肝付氏と島津氏は対立し、南九州の覇権を争うようになった。
肝付氏は日向の伊東義祐と手を結び、良兼は義祐の娘を妻に迎えた。永禄4年(1561)、肝付方は大隅の廻城(めぐりじょう)を奪い、島津貴久・義久が取り返しに出陣した。この戦いで肝付方は伏兵で島津軍を破り、貴久の弟・島津忠将を討ち取った。肝付氏はさらに伊東氏と組んで、飫肥の島津豊州家を攻め、志布志城も手に入れた。
良兼の早い死
良兼は元亀2年(1571)7月、37歳で病死した(33歳とする説もある)。良兼と妻の間には男子が生まれたが幼くして亡くなり、娘が二人残った。
良兼の死後、母や妻の相談によって、良兼の娘を弟の兼亮に嫁がせ、兼亮が家を継いだ。良兼という柱を失った肝付氏は、しだいに勢いを失っていった。
その後の肝付氏
天正2年(1574)、肝付氏はついに島津氏に従った。天正8年(1580)には薩摩国阿多郡へ所領を替えられ、先祖から受け継いだ高山の地を離れた。
その後、本家は慶長年間に当主が子のないまま亡くなり、血筋が途絶えた。遠い縁者の新納氏から養子を迎えて家名を保ったとされる。また、江戸時代に薩摩国喜入郷を治めた私領主の肝付氏は、この一族の支流である。
ゆかりの地
- 高山城跡(鹿児島県肝属郡肝付町):肝付氏の本拠の山城。天正8年の阿多移封で廃城となった
- 廻城跡(鹿児島県霧島市福山町):永禄4年に肝付氏と島津氏が争った城
参考にした資料
肝付良兼とは
肝付良兼は、大隅の肝付家の当主です。島津家と大隅の支配をめぐって争いました。
肝付家
肝付家は、平安時代から大隅に根を張った古い一族で、高山城を本拠としました。
島津家との争い
良兼の時代、肝付家は伊東家と結んで島津家と戦いました。
早い死
良兼は、元亀2年(1571年)ごろ、若くして亡くなりました。その後、肝付家は島津家に降りました。
評価
良兼は、古い名門・肝付家を率いて島津家と争った当主です。その早い死は、肝付家の行く末に大きく影響しました。
このイラストについて
このイラストは、山城と旗を背に、旗を振る良兼を描いています。
旗を振り上げる姿で、島津家と争った当主の勢いを表しました。
山の上の城は、肝付家の本拠だった高山城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
大隅の高山城を本拠とした家で、平安時代からの名族・伴氏の流れをくむ。肝付兼続の代に勢力を広げ、島津氏と婚姻関係を結びながらも対立した。
肝付家の歴史と武将一覧を見る →

























