ふくしま たかはる
| 地域 | 東海・近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣家→徳川家 |
| 大名家 | 福島家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 兄を支えた実務型の武将 |
福島高晴は、豊臣秀吉の子飼いとして知られる福島正則の弟である。関ヶ原の戦いで東軍に加わり、大和宇陀松山3万石の大名になった。しかし大坂の陣のあとに改易され、大名の地位を失った。
秀吉の親類として生まれる
高晴は天正元年(1573)、尾張(愛知県)に生まれた。父は福島正信で、高晴はその次男にあたる。兄は福島正則である。
母は豊臣秀吉の叔母にあたる人とされ、福島兄弟は秀吉の親類であった。初めの名は正頼といい、通称は助六郎。のちに高晴と名のった。孝治という別名も伝わる。尾張の生まれで秀吉と縁のある若者たちは、秀吉の天下取りとともに取り立てられていった。高晴もその一人である。
伊勢長島から大和宇陀松山へ
高晴は兄とともに秀吉に仕えた。秀吉の時代には伊勢長島(三重県桑名市)で1万石を領した。
秀吉の死後は徳川家康に従った。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その手柄で大和松山(奈良県宇陀市)3万石に移った。これが宇陀松山藩である。宇陀は大和の東の山あいにあり、伊勢へ通じる道の通る場所であった。高晴は従五位下・掃部頭にも任じられ、兄の正則とならぶ大名の一人となった。
大坂の陣のあとの改易
慶長20年(1615)、大坂の陣で豊臣家がほろんだ年に、高晴は改易された。理由については、豊臣方に通じていた疑いをかけられたためとも、下馬騒動と呼ばれる事件のためともいわれ、はっきりしない。
福島家は秀吉と縁の深い家であった。豊臣家がなくなった直後のこの処分には、そうした家への幕府の警戒があったとも考えられている。わずか15年ほどで、宇陀松山の福島家は終わりをむかえた。
晩年と兄・正則の家
改易のあと、高晴は道牛と号して暮らしたとされる。寛永10年(1633)9月25日に61歳で亡くなった。子に正晴がいる。大名としての福島家はなくなったが、高晴の血筋は子の代へと受けつがれた。
兄の正則も、元和5年(1619)に広島城の無断修築をとがめられて広島49万石余を取り上げられた。秀吉の親類として大名になった福島兄弟は、ともに江戸幕府の初めに大名の地位を失ったのである。
ゆかりの地
- 宇陀松山城跡(奈良県宇陀市):高晴が藩主だった宇陀松山の城跡。国の史跡
- 長島城跡(三重県桑名市):秀吉の時代に高晴が1万石を領した長島の城跡
参考にした資料
福島高晴とは
福島高晴は、福島正則の弟です。兄とともに秀吉に仕え、のちに大和の宇陀松山の領主となりました。
兄・正則
兄の正則は、賤ヶ岳の七本槍の一人で、のちに安芸・備後の大名となりました。
宇陀松山城
高晴が治めた宇陀松山城は、今の奈良県宇陀市にあった山城で、城下には古い町並みが残っています。
改易
大坂の陣ののち、高晴は豊臣方に通じたとされて改易されました。
評価
高晴は、兄・正則とともに豊臣家に仕え、大名となりながら、江戸時代の初めに領地を失った人物です。
このイラストについて
このイラストは、城門と柵の前に立つ高晴を描いています。
兜をかぶり、手を掲げる姿で、城を任された武将の姿を表しました。
水辺の柵と城門は、高晴が治めた城の守りをイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
豊臣秀吉の子飼いの武将・福島正則を中心とする家。正則は秀吉の親類にあたり、賤ヶ岳の戦いで一番槍の功を挙げて「賤ヶ岳の七本槍」の筆頭とされた。
福島家の歴史と武将一覧を見る →


























