いとう すけたけ
| 地域 | 九州(日向) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 伊東氏・豊臣氏 |
| 大名家 | 伊東家(飫肥藩) |
| 家紋 | 庵木瓜 |
| 主武器 | 刀・槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 再興の大名 |
伊東祐兵は、日向の大名・伊東義祐の次男である。島津氏に敗れて日向を追われたが、豊臣秀吉に仕えて道を開いた。九州平定で案内役を務めて飫肥城に戻り、飫肥藩伊東家の初代とされる。
日向伊東氏の起こり
伊東氏は藤原南家の流れをくむ工藤氏の分家で、伊豆国伊東を本拠とした家である。鎌倉時代の工藤祐経の子孫にあたる。祐経の子・祐時は、源頼朝の時代から地頭として各地に領地を持っていた。
建武2年(1335)、伊東祐持が足利尊氏に従い、日向国の都於郡に領地を与えられて下向した。以後、伊東氏は日向で勢力を広げた。戦国時代には祐兵の父・義祐が領地を大きく広げ、南の島津氏と争いをくり返した。
日向を追われる
祐兵は永禄2年(1559)1月15日、伊東義祐の次男として生まれた。しかし天正5年(1577)、義祐は島津義久との戦いに敗れ、一族は豊後の大友氏を頼って日向を去った。
翌天正6年(1578)、大友軍も島津軍に敗れた。祐兵らはさらに伊予へ渡ったとされる。父の義祐は、のちに日向へ戻ることなく亡くなった。
秀吉に仕えて飫肥へ
祐兵は羽柴(豊臣)秀吉に仕え、河内国で2500石を与えられた。天正15年(1587)、秀吉が九州へ攻めこむと、祐兵は日向の道案内を務めた。
その功によって、祐兵は日向の那珂・宮崎両郡を与えられ、天正16年(1588)に飫肥城へ入った。島津氏に追われてから約10年ぶりの帰郷であった。文禄の検地ののち、石高は3万6000石とされた。
飫肥藩の初代として
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、祐兵は徳川方(東軍)についた。しかし病にかかり、同年10月11日に42歳で亡くなった。
跡は長男の祐慶が継いだ。飫肥藩の石高は慶長10年(1605)に5万7000石余りとなり、のちに2度の分知を経て5万1000石余りに落ち着いた。伊東家は江戸時代を通じて飫肥藩主として14代続き、明治4年(1871)の廃藩を迎えた。維新後は子爵となった。日南市の伊東家累代墓地には、祐兵をはじめ歴代藩主が葬られている。
ゆかりの地
- 飫肥城跡(宮崎県日南市飫肥):祐兵が天正16年に入った伊東家の居城
- 伊東家累代墓地(宮崎県日南市楠原):祐兵以下歴代藩主の墓所。旧報恩寺の跡にある市指定文化財
参考にした資料
伊東祐兵とは
伊東祐兵は、日向の伊東義祐の子です。伊東家が日向を追われたのち、秀吉に仕えて家を再興しました。
伊東崩れ
天正5年(1577年)、伊東家は島津家に追われ、豊後の大友家を頼りました。この出来事は「伊東崩れ」と呼ばれます。
秀吉への仕官
祐兵は、各地を転々としたのち秀吉に仕え、九州平定で道案内などの働きをしたとされます。
飫肥城
祐兵は、日向の飫肥に領地を与えられ、飫肥城を本拠としました。城下には今も武家屋敷の町並みが残っています。
評価
祐兵は、一度は国を追われた伊東家を、秀吉に仕えることで大名として再興した人物です。飫肥藩は、江戸時代を通じて伊東家が治めました。
このイラストについて
このイラストは、山と城を背に立つ祐兵を描いています。
若々しい顔つきと赤い衣の甲冑で、家の再興に力を尽くした武将の意志を表しました。
霧の立つ山々と城は、伊東家が治めた日向の飫肥をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
日向を本拠とした家で、鎌倉時代に工藤祐経の子孫が下向したのが始まりとされる。伊東義祐の代に日向南部の飫肥をめぐって島津氏と争い、「伊東四十八城」と呼ばれる支配網を築いて最盛期を迎えた。
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