うの すけきよ
| 地域 | 播磨(兵庫県宍粟市) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 播磨の国衆(反織田方) |
| 大名家 | 宇野家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 籠城の将 |
宇野祐清は、播磨国宍粟郡(兵庫県宍粟市)を治めた宇野氏の武将である。父の宇野政頼とともに長水城に拠ったが、天正8年(1580)に羽柴秀吉の軍に攻められて落城し、一族とともに最期を迎えたと伝わる。
赤松氏につながる宇野氏
宇野氏は、播磨の守護であった赤松氏とかかわりの深い家である。赤松氏の守護代をつとめたとされ、宍粟郡の山あいを根拠地とした。
本拠の長水城は、南北朝時代に赤松則祐が築いたと伝わる山城である。嘉吉の乱で赤松氏がいったん滅んだのち、宇野氏が守りの固いこの城を本拠にしたと考えられている。戦国時代には政頼・祐清の父子がこの城を治めた。
宇野氏の領地は、因幡・美作へ通じる道が通る播磨の北西部にあった。山が多く、鉄の産地としても知られた土地である。そのため、播磨をめぐる争いの中で宇野氏の動きは大事な意味を持っていた。
長水城と秀吉の播磨攻め
長水城は、宍粟市山崎町の市街地から北西へ約5キロ、標高584メートルの長水山の山頂にある。播磨の西北部を見わたす要害であった。
織田信長の命で羽柴秀吉が播磨を攻めると、多くの国衆が織田方と毛利方に分かれて争った。宇野氏は秀吉に従わなかった。秀吉は三木城・英賀城を落としたのち宍粟へ兵を進め、天正8年(1580)、長水城は篠ノ丸城とともに落城した。
千種での最期
地元の伝えでは、宇野方は40日あまり激しく戦ったが、内通する者が出て城は炎上した。政頼らは城を抜け出し、秀吉軍に追われながら千種(宍粟市千種町)まで逃れた。しかし増水した千種川を渡れず、5月9日に大森の段で一族が自害したという。家臣32人と兵95人も殉じたと伝わる。
笛の音を追手の合図と思いこみ、実は味方の援軍の知らせであったのに自害してしまったという悲しい話も残る。現在、大森の段には五輪塔4基と家臣の名を刻んだ板碑が建ち、「宇野のお塚さん」と呼ばれている。
宇野氏のその後
長水城の落城で、宍粟を治めた宇野氏は戦国大名としての力を失った。そのあと宍粟は神子田正治や黒田官兵衛の領地となり、長水城の役目は終わった。
祐清は、赤松氏の時代から続いた播磨の国衆が、天下統一の波の中で消えていった姿を伝える人物である。
ゆかりの地
- 長水城跡(兵庫県宍粟市山崎町):宇野政頼・祐清父子の本拠の山城
- 宇野遺跡(宇野のお塚さん)(兵庫県宍粟市千種町):宇野一族が自害したと伝わる大森の段。五輪塔と板碑が残る
参考にした資料
宇野祐清とは
宇野祐清は、播磨の長水城を本拠とした宇野氏の当主です。
長水城
長水城は、今の兵庫県宍粟市にあった山城で、播磨西部の要の城でした。
秀吉の播磨攻め
天正8年(1580年)、秀吉は播磨の西部を攻め、長水城も攻撃を受けました。
評価
祐清は、播磨の古い名門・宇野氏の当主として、秀吉の播磨攻めに最後まで抵抗した武将です。
このイラストについて
このイラストは、山あいの陣を背に、腕を組んで立つ祐清を描いています。
風になびく髪と強い目つきで、最後まで抵抗した当主の意志を表しました。
夕日に照らされた山々と陣は、播磨の西部の戦場をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
室町幕府の侍所の長官を務める四職の一つで、播磨・備前・美作の守護を兼ねた名門。1441年に赤松満祐が将軍足利義教を殺害した嘉吉の乱で一度滅びたが、のちに再興された。
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