問田隆盛 | 大内家臣。陶晴賢に与した石見守護代

問田隆盛

といだ たかもり

地域中国
所属勢力・属性大内家臣
大名家大内
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ堅実・武功

問田隆盛は周防の大内氏に仕えた武将である。石見国の守護代を務めたとされ、大寧寺の変では陶隆房(晴賢)に協力した。厳島の戦いの後、毛利元就の防長経略の中で、陶長房とともに周防富田において自害したとされる。

目次

問田氏と大内家

問田氏は周防国吉敷郡問田(現在の山口市)を名字の地とする大内氏の家臣で、大内氏の一族とされる。隆盛は永正16年(1519)に生まれたとされ、通称は十郎である。父は問田興之と考えられている。陶隆房(のちの晴賢)の兄弟とする記述もあるが、系譜関係ははっきりしない。

石見守護代として

隆盛は大内氏の分国である石見国の守護代を務めたとされる。守護代は、守護に代わって国の支配を担う役職である。天文3年(1534)には豊後の大友氏との戦いに出陣し、矢傷を負ったと伝わる。

大寧寺の変から最期まで

天文20年(1551)、陶隆房が主君大内義隆を攻め、長門の大寧寺で自害に追い込んだ。これを大寧寺の変という。隆盛はこのとき隆房に協力したとされる。

天文24年(1555)の厳島の戦いで、陶晴賢は毛利元就に敗れて自害した。隆盛もこの戦いに加わったが、戦場を脱出したとされる。

大内家では、晴賢が大友氏から迎えた大内義長が新たな当主となった。隆盛はこの陶氏主導の体制のもとで大内家に仕えたとされる。

その後、毛利元就は周防・長門へ攻め込んだ。これを防長経略という。隆盛は周防国富田(現在の山口県周南市)で杉重輔の攻撃を受け、晴賢の子の陶長房とともに自害に追い込まれたとされる。

ゆかりの地

  • 富田(山口県周南市):隆盛が陶長房とともに自害したとされる地

主君・大内義隆

大内義隆は、周防・長門を中心に七か国の守護を務めた大名です。山口に京の公家や文化人を迎え、学問や芸能を大いに保護しました。

西の京・山口

大内家の本拠・山口は、京の町にならって整えられ、「西の京」と呼ばれました。朝鮮や明との交易でも栄え、宣教師ザビエルも訪れています。

問田氏という一族

問田氏は、大内家の一族の流れをくむ家とされ、大内家の重臣として仕えました。山口の近くの問田の地名にちなむ名字とされます。

陶晴賢の台頭

義隆が文化に力を入れる一方で、武断派の重臣・陶隆房(のちの晴賢)との間には溝が深まっていきました。この対立が、大寧寺の変につながりました。

大内家の滅亡

変の後、晴賢は大友家から大内義長を迎えて当主としましたが、晴賢は厳島の戦いで毛利元就に敗れました。弘治3年(1557年)には義長も自害し、大内家は滅びました。

評価

隆盛は、大内家の重臣として石見の守りを担い、主家の大きな変動の中を生きた武将です。その歩みは、西国一の大名だった大内家の終わりの時代を伝えています。

このイラストについて

このイラストは、山の城を背に、兜をかぶって前を見すえる隆盛を描いています。

紋の入った兜と黒い甲冑で、大内家の重臣としての威厳と、乱世の緊張感を表しました。

くすんだ空と山並みは、大内家が治めた周防・石見の山々をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

大内家

周防・長門を本拠とした守護大名で、百済の王族の子孫と称した。大内義興は前将軍足利義稙を擁して上洛し、管領代としておよそ10年にわたって京都の政治を動かした。

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主家

大内義隆大内義興

家臣団

三浦房清内藤興盛内藤隆春冷泉隆豊吉見正頼弘中隆包江良房栄陶晴賢陶興房飯田興秀
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