てらしま もとさだ
| 地域 | 北陸 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 神保家臣 |
| 大名家 | 神保 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 堅実・忠義 |
寺島職定は、富山城を拠点とした越中の戦国大名神保長職の重臣とされる人物である。家中で小島職鎮と勢力を二分し、長職の嫡男長住を担ぐ反上杉派の中心になったと伝わる。生没年や晩年の動向は、よくわかっていない。
神保長職の重臣
職定は越中(富山県)の神保長職に仕えた重臣とされる。池田城を居城とし、同じく重臣の小島職鎮と並ぶ有力者であったという。生没年や通称は伝わらない。
寺島氏は一向宗(浄土真宗)の門徒とつながりが深く、本願寺の坊官(寺の運営にあたる家臣)である下間氏と婚姻関係があったとされる。
神保家中の分裂
神保長職は富山城を拠点に越中東部へ勢力を広げたが、永禄5年(1562)に上杉謙信に屈した。当時の越中では、上杉氏、一向一揆、能登の畠山氏などの動きが絡み合っていた。長職の降伏後、神保家中では上杉氏との関係をめぐって意見が割れた。
嫡男長住を担ぐ反上杉派の中心が職定であったとされる。これに親上杉派の小島職鎮が対立した。長職が長住らを抑え、一向一揆への攻撃を始めたため、家中は内戦状態に陥ったという。小島職鎮は謙信に援軍を求め、謙信は職定方の池田城を攻め落としたとされる。ただし年次や細部には資料によって違いがある。
長住はのちに越中を離れ、織田信長のもとに身を寄せた。天正6年(1578)には信長の支援を受けて越中に戻った。職定のその後の動向ははっきりしない。
ゆかりの地
- 富山城(富山県富山市):主君神保長職の拠点
参考にした資料
神保長職
長職は、越中の守護代・神保氏の当主です。富山城を築いたとされ、越中西部から中部に勢力を広げました。
越中の守護代
越中の守護は畠山家でしたが、実際の支配は神保氏や椎名氏などの守護代が担っていました。
椎名氏との争い
神保氏は、越中東部の椎名氏と争いました。椎名氏は上杉謙信と結び、神保氏の勢力に対抗しました。
謙信の越中攻め
永禄年間、謙信はたびたび越中に攻め込み、神保長職を追い詰めました。神保氏は、謙信に降ることになりました。
分かれた家臣たち
神保家では、上杉家につくか、一向一揆や武田家と結ぶかをめぐって、家臣たちが分かれていきました。職定も、そうした争いの中にいた一人です。
寺島氏
寺島氏は、神保家の重臣の家とされ、職定は小島職鎮とともに名の知られた家臣です。
神保氏のその後
神保家は、のちに長職の子・長住が織田家の支えを受けて富山城に戻りましたが、上杉方との争いの中で力を失いました。
評価
職定は、神保家の重臣として、家中の分裂と越中の激しい争いの時代を生きた武将です。
このイラストについて
このイラストは、山の城を背に、兜をかぶって立つ職定を描いています。
前立ての付いた兜と、落ち着いた顔つきで、神保家を支えた重臣の姿を表しました。
夕日に照らされた山並みと城は、神保氏が治めた越中の山々をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
越中の守護代を務めた家で、富山城や増山城を拠点に越中西部を治めた。神保長職の代に勢力を広げたが、越中東部の椎名氏や一向一揆、上杉謙信との争いに巻き込まれた。
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