しょうえんおう
| 地域 | 琉球 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 琉球王国・第一尚氏/第二尚氏 |
| 大名家 | 琉球王国 |
| 家紋 | 丸に三つ巴 |
| 主武器 | 王冠・王笏 |
| 衣装・甲冑 | 琉球王朝豪華衣装 |
| 武将タイプ | 「第二尚氏王統の祖」 |
農民(金丸)から身を起こし、クーデターによって第一尚氏を倒して第二尚氏王統をひらいた稀代の英雄。
伊是名島の農民の子
尚円王は、もとの名を金丸といい、琉球の伊是名島で農民の子として生まれたと伝えられます。のちに一国の王となる人物としては、異例の出自でした。
故郷を離れる
金丸は若い頃、伊是名島を離れて沖縄本島に渡りました。島での暮らしの中で村人と対立したことが、島を出るきっかけになったともいわれます。
首里へ
金丸は国頭などを経て首里に出て、やがて王家に仕えるようになりました。身分の低い出自から、才能によって道を切り開いていったのです。
尚泰久王に仕える
金丸は第一尚氏の尚泰久王に重く用いられ、出世を重ねました。王の信頼を得て、王府の重要な役職を担うようになります。
外交と貿易を担う
金丸は、外交や貿易の実務を担う役職に就いたとされます。中継貿易で栄えた琉球にとって、その役目は国の財政を左右する重要なものでした。
尚徳王との対立
尚泰久王の死後、跡を継いだ尚徳王の時代になると、金丸は王と対立するようになりました。金丸はやがて首里を離れ、隠遁したと伝えられます。
第一尚氏の終わり
1469年に尚徳王が亡くなると、王府の重臣たちは尚徳王の子を退け、金丸を新たな王に推したとされます。これにより第一尚氏の王統は終わりました。
クーデターとの見方
この王位の交代は、重臣たちによるクーデターだったと考えられています。尚徳王の一族の多くは、このときに命を落としたとも伝えられます。
尚円王の即位
1470年、金丸は王位につき、尚円と名乗りました。これが第二尚氏王統の始まりです。
明との関係
尚円王は明の皇帝に使者を送り、琉球国王として認められました。前の王家との血のつながりはありませんでしたが、明に対しては尚徳王の世子として認めてもらう形をとったとされます。
最期
尚円王は1476年に亡くなりました。王位についてからわずか数年でしたが、新しい王統の基礎を築きました。
第二尚氏の繁栄
尚円王の子の尚真王の時代に、琉球王国は中央集権を確立し、黄金時代を迎えました。第二尚氏王統は、その後400年にわたって琉球を治めることになります。
伊是名島の史跡
尚円王の故郷伊是名島には、王の生誕地や、一族を葬った伊是名玉御殿などの史跡が残されています。
金丸の名
尚円王は、王になる前は金丸と名乗っていました。伊是名島の農民の出身と伝えられ、身分の低い生まれから王にまで上りつめた人物です。
伊是名島
尚円王の出身地とされる伊是名島には、尚円王の生誕地や、王家の墓とされる伊是名玉御殿が残されています。
第二尚氏王統
尚円王に始まる第二尚氏王統は、約400年にわたって続き、1879年の琉球処分まで琉球を治めました。
玉陵
第二尚氏の王家の墓である玉陵は、首里にあり、世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとなっています。
尚円王の評価
尚円王は、農民の子から王にまで上りつめ、400年続く王統を開いた人物です。琉球の歴史の中でも特に劇的な生涯を送った王として知られています。
このイラストについて
冠をかぶり、金の文様の衣をまとった王が、丘の上の城を背にして立つ姿です。
背景の城は、琉球王国の王城である首里城をイメージしています。農民の子から王となった尚円王の、威厳のある晩年の姿を描きました。冠や衣装の細部は想像によるもので、実際の王の装束を写したものではありません。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
沖縄本島を中心に、奄美から八重山まで広がる島々を治めた王国。1429年に尚巴志が北山・中山・南山の三つの勢力をまとめ、統一王朝が始まった。1470年には尚円王が即位して第二尚氏の王統が開かれ、続く尚真王の代に首里を中心とした中央集権の仕組みが整えられた。
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