しが ちかつぐ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大友家臣(南郡衆)・キリシタン |
| 大名家 | 大友家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足に十字架をしのばせた姿 |
| 武将タイプ | 籠城・守将型 |
志賀親次は、豊後の岡城(大分県竹田市)を守った大友家の武将である。天正14年(1586)、島津氏が豊後に攻め込んだとき、岡城にこもって大軍を退けた。熱心なキリシタンで、洗礼名をドン・パウロといった。
大友一族の名門・志賀家
志賀家は大友家の一族で、大友氏の始祖・能直の八男である能郷を祖とする。のちに北志賀家と南志賀家に分かれ、ともに「南郡衆」と呼ばれる有力な家臣団に数えられた。親次の北志賀家は岡城を拠点に周辺を治め、豊後の諸将のなかでも特に大きな力を持っていたという。
親次は永禄9年(1566)ごろの生まれと考えられている。父は志賀親度とされ、親孝とする資料もある。祖父は親守である。名は親善とも書き、通称は小左衛門尉といった。
岡城で島津軍を退ける
岡城は文治元年(1185)に緒方惟栄が築いたと伝わる城で、のちに志賀家が治めた。天正14年(1586)、島津氏が豊後へ攻め込み、大友方の城は次々に落ちた。若くして家督を継いでいた親次は岡城にこもり、島津義弘の軍勢と戦った。岡城は険しい崖に囲まれた天然の要害で、親次は島津の攻撃を何度も退けた。
島津方からは味方になるよう誘いもあった。しかし親次はキリスト教を禁じる島津氏に従わず、大友家への忠義を貫いたという。親次は少年のころからキリスト教に心を寄せていた。領内にも多くの信者がいたと考えられ、竹田の城下近くには洞窟礼拝堂とみられる遺跡が残っている。ほかにもキリシタン墓碑や「サンチャゴの鐘」など、信仰の跡が竹田に伝わる。
主家の改易と流浪の後半生
文禄の役では、主君の大友義統に従って朝鮮へ渡った。しかし文禄2年(1593)、義統は戦場での失態を責められて改易され、志賀家も所領を失った。
その後の親次は、福島正則、ついで小早川秀秋に仕えた。最後は毛利輝元に仕え、長門(山口県)で亡くなったと伝わる。没年ははっきりしない。宇部市小野には親次の墓と伝わるものが残る。
岡城は文禄3年(1594)に中川秀成が入って近世の城に改修され、中川家が13代にわたって明治まで治めた。
ゆかりの地
- 岡城跡(大分県竹田市竹田):親次が島津軍を退けた断崖の城。のち中川家の居城
- 志賀親次の墓(山口県宇部市小野):晩年を過ごした地に残る、親次の墓と伝わる墓
参考にした資料
志賀親次とは
志賀親次は、豊後の大友家の一族・志賀氏の武将で、岡城を守ったことで知られます。
キリシタン武将
親次は、キリスト教の洗礼を受けた武将でもありました。洗礼名はドン・パウロと伝えられます。
岡城の籠城
天正14年(1586年)、島津軍が豊後に攻め込むと、親次は岡城に籠もってその攻撃を何度も退けました。
秀吉の称賛
親次の奮戦は、秀吉からもほめられたと伝えられます。
評価
親次は、多くの城が島津方に降る中で岡城を守り抜いた若き勇将です。のちに主家の改易によって流浪の身となりました。
このイラストについて
このイラストは、断崖の上の城を背に立つ親次を描いています。
大きな前立ての兜と胸の十字の飾りで、キリシタン武将としての姿を表しました。
険しい崖と城は、親次が守り抜いた岡城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
鎌倉時代から豊後の守護を務めた家。1550年、当主の大友義鑑が家臣に襲われる「二階崩れの変」で死去し、子の義鎮(宗麟)が家督を継いだ。宗麟は豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職を手に入れ、北九州に一大勢力を築いた。
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