いしかわ いえなり
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 老練・忠義 |
石川家成は徳川家康の重臣で、母は家康の母於大の方の姉とされる。西三河の旗頭として諸将を率い、永禄12年(1569)からは遠江掛川城を守った。旗頭は甥の石川数正に譲った。関東移封後は伊豆で隠居料を得て、晩年は美濃大垣藩主も務めた。
家康の親族としての出自
家成は天文3年(1534)に生まれた。通称は彦五郎、官途は日向守である。父は石川清兼、母は家康の母於大の方(伝通院)の姉妙西尼とされ、家康とはいとこにあたる。石川氏は三河の松平家に仕えた家で、甥に石川数正がいる。
若くして家康に仕えた。永禄6年(1563)から翌年にかけて三河一向一揆が起きた。浄土真宗(一向宗)の門徒による蜂起で、家臣団にも門徒が多く、家中が割れた。家成は家康方として鎮圧に働いた。
西三河の旗頭
家康は三河を平定したのち、家臣団を東三河と西三河に分けて組織した。東三河の旗頭(地域の軍団を率いる指揮官)は酒井忠次、西三河の旗頭が家成であった。旗頭は担当地域の国衆や家臣を束ね、戦時にはこれを率いて出陣した。家康自身に直属する部隊は旗本と呼ばれ、両旗頭と旗本が徳川軍の骨格となった。
掛川城と晩年
永禄11年(1568)末、家康は今川氏の領国であった遠江に進出した。翌永禄12年(1569)、今川氏真が籠もる掛川城(静岡県掛川市)を攻め、開城させた。掛川城の攻囲は数か月に及び、同年5月に和睦が成って氏真は城を明け渡した。これにより戦国大名今川氏は事実上滅んだ。家成はこの掛川城を預かり、遠江支配の拠点を守った。これに伴い、西三河の旗頭は甥の数正に譲った。
その後、家督は子の康通に譲った。天正18年(1590)に家康が関東へ移ると、家成は伊豆国梅縄で隠居料5000石を与えられた。康通は美濃大垣藩主となったが、慶長12年(1607)に没した。このため家成が大垣藩主を継いだ。慶長14年(1609)10月29日、76歳で没した。
ゆかりの地
- 掛川城(静岡県掛川市):永禄12年の攻略後、家成が預かった城
- 大垣城(岐阜県大垣市):晩年の家成が藩主となった大垣藩の居城

















































































