ながの なりまさ
| 地域 | 関東(上野・箕輪) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 長野氏(山内上杉家の重臣) |
| 大名家 | 長野家 |
| 家紋 | 檜扇 |
| 主武器 | 采配 |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 守りの名将 |
長野業正(ながの なりまさ)は、上野(群馬県)の箕輪城主で、関東管領・山内上杉家の重臣である。業政とも書く。延徳3年(1491年)ごろに生まれ、永禄4年(1561年)ごろに亡くなった。武田信玄の上野侵攻をたびたび退け、信玄に「業正がいる限り上野は手に入らない」となげかせたと伝わる。
3行でわかる長野業正
- 箕輪城を本拠に、上野西部の国衆をまとめた
- 12人の娘を周辺の国衆に嫁がせて結束を固めたと伝わる
- 武田信玄の侵攻を退け続けたが、死後まもなく箕輪城は落とされた
目次
上州の要
業正は山内上杉家に仕えた長野家の当主で、箕輪城(群馬県高崎市)を本拠とした。天文21年(1552年)に主君の上杉憲政が北条家に追われて越後へ逃れたあとも、業正は上野西部の国衆をまとめて独立を保った。
業正には12人の娘がいたといわれ、娘たちを周辺の国衆に嫁がせることで、婚姻による同盟を広げた。
信玄を退ける
弘治3年(1557年)ごろから、武田信玄は上野に攻めこんだが、業正はこれを何度も退けた。信玄は「業正が一人いる限り、上野を攻め取ることはできない」と言ったと伝わる。剣聖・上泉信綱も業正に仕えた武将の一人である。
業正の死と箕輪落城
業正は永禄4年(1561年)ごろに亡くなった。死にぎわに、自分の死を隠して武田に降るなと言い残したと伝わる。跡を継いだ子の業盛は若く、永禄9年(1566年)、箕輪城は武田軍に攻め落とされ、業盛は自害した。その後、箕輪城には武田家の内藤昌豊が城代として入った。
長野業正をめぐる人物
- 主君:上杉憲政(山内上杉家)
- 子:長野業盛
- 家臣:上泉信綱
- 戦った相手:武田信玄
ゆかりの地
- 箕輪城跡(群馬県高崎市):業正の居城。日本100名城
- 長純寺(群馬県高崎市):業正の墓があると伝わる寺


上泉信綱
武田信玄
内藤昌豊
上杉謙信







































