さかい ただよ
| 地域 | 関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 高級具足 |
| 武将タイプ | 「大老」・政権中枢 |
酒井忠世は酒井重忠の長男で、雅楽頭を称した。徳川秀忠の家老となり、秀忠が将軍になると土井利勝らと並んで幕政の中心を担った。厩橋(前橋)城主として12万石余を領し、晩年は大老と呼ばれる地位にあったが、その位置づけには諸説ある。
目次
雅楽頭酒井家の嫡男
酒井忠世は元亀3年(1572年)6月5日に生まれた。父は三河西尾城主の酒井重忠で、その長男である。幼名は万千代。のちに雅楽頭を称し、この家系は雅楽頭酒井家と呼ばれる。
忠世は徳川家康に仕え、天正18年(1590年)に家康の子・秀忠の家老となった。関ヶ原の戦いや大坂の陣にも従っている。
秀忠政権の中心として
慶長10年(1605年)に秀忠が2代将軍になると、忠世は土井利勝らとともに秀忠を補佐する中心となった。この役職はのちの老中にあたり、当時は年寄と呼ばれた。
所領は慶長6年(1601年)に上野那波で1万石を与えられたのが始まりである。元和3年(1617年)に厩橋城(今の群馬県前橋市)の城主となり、父の遺領を継いで8万5000石となった。のちに加増を受け、12万石余に達した。
西の丸の焼失と晩年
寛永9年(1632年)に秀忠が死去すると、忠世は江戸城西の丸の守衛を命じられ、そこに住んだ。寛永11年(1634年)、3代将軍家光が上洛している間に西の丸が失火で焼けた。忠世はこの責任で一時出仕を止められたが、まもなく許された。
寛永13年(1636年)3月19日に死去した。65歳であった。
ゆかりの地
- 前橋城跡(群馬県前橋市):忠世が城主となった厩橋城の跡

















































































