なす すけふさ
| 地域 | 関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 下野国人 |
| 大名家 | 那須家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 豪華具足 |
| 武将タイプ | 下野の雄・那須中興 |
那須資房(?〜1552)は下野の武将で、下那須家の当主。永正年間に惣領の上那須家が家督争いで絶えると、子の政資を上那須家の当主にすえ、およそ100年ぶりに那須氏を統一した。下野烏山城を本拠とした。
分裂していた那須氏
那須氏は下野国那須郡の武家である。室町時代の15世紀初めに、上の荘の上那須家と、下の荘の下那須家に分かれた。上那須家が惣領とされた。
那須資房は下那須家の当主・那須資実の子である。明応3年(1494)に父が没すると家督を継ぎ、烏山城を本拠とした。
上那須家の断絶と統一
永正11年(1514)、上那須家の当主・那須資親が没した。実子の山田資久と養子の資永の間で家督争いが起こり、資永が資久を殺した。
資房は大田原資清らと手を結び、資永を自害に追い込んだ。そして子の政資を上那須家の当主にすえた。『日本人名大辞典』は、永正13年(1516)に資房が約100年ぶりに両家を統一したとする。
周辺勢力との攻防と晩年
統一後の那須氏は、周囲の勢力に囲まれていた。永正17年(1520)、陸奥の岩城氏が政資を攻めた。資房は宇都宮忠綱の援軍を得て、これを撃退したとされる。のち佐竹氏の仲介で、岩城常隆の娘を政資の妻に迎えて和睦した。
資房は家督を政資に譲って隠居した。政資と孫の高資に先立たれ、孫の資胤が当主となったのち、天文21年(1552)11月5日に没した。統一によって那須氏は戦国大名として動く足場を得たが、その後も一族や重臣の争いは続いた。
那須氏はその後、資胤、資晴と続いた。天正18年(1590)、資晴は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、所領を没収された。
ゆかりの地
- 烏山城跡(栃木県那須烏山市):資房が本拠とした那須氏の城
参考にした資料
那須家と那須与一
那須家は、源平の屋島の戦いで扇の的を射たと伝えられる那須与一の家として知られます。下野の北部、那須の地を本拠とした名門です。
烏山城
那須家の本拠となった烏山城は、今の栃木県那須烏山市にあった山城です。那珂川を見下ろす山の上に築かれていました。
那須七騎
那須家の家臣には、大田原・大関・福原・芦野・伊王野・千本・岡本の七家があり、「那須七騎」と呼ばれました。いずれも那須の各地に根を張った国衆でした。
子・政資との争い
資房の晩年には、子の政資との間に争いが起きたと伝えられます。親子の争いには、家臣たちや周りの大名も関わりました。
評価
資房は、分かれていた那須家を一つにまとめた当主として知られます。その後の那須家の歩みの土台を築いた人物といえます。
このイラストについて
このイラストは、紅葉した山の城を背に、弓を手にした年配の資房を描いています。
白いひげをたくわえた厳しい顔つきで、分かれた家をまとめあげた当主の貫禄を表しました。
弓は、那須与一の名で知られる弓の名家・那須家にちなんだものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
下野北部の那須地方を本拠とした家で、源平合戦の那須与一の子孫と伝えられる。戦国時代には宇都宮氏や佐竹氏、北条氏と争いながら勢力を保った。
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